札幌、雨。藻岩山はすっぽりと雲に覆われて見えなかった(→ Mt. Moiwa, March 27th, 2008)。雨の日は、透明傘をさして散歩するのが好きだ。傘を打つ雨音を聞きながら、濡れた傘を通して見る風景もまた一興。ただ手が塞がり、写真があまり撮れないのが難。

剪定されたムクゲ木槿, Rose of Sharon, Hibiscus syriacus)の枝の断面。昨日のプラタナスの枝とは違って年輪が見える。

文字は風を運ぶ:書風という概念

府川充男氏は文字を語るに際して当たり前のように「書風」という言葉を使う。古風だなあ、と最初は違和感があったが、書体、書体と語ってきたなかで、実は私は書体と書風を混同していたことにはっきりと気づいた。

府川氏によれば、文字の「形」には三つの「指標」がある(『組版原論』16頁〜32頁)。人体に喩えるならば、骨格に相当するのが「字体」、肉付けられたのが「書体」、そして衣装を纏った状態が「書風」である。実際には私たちは裸の書体ではなく、服を着た書風を通して文字を見ているので、一般には書風こみで書体、書体と言っている。

府川氏に倣って、字体(字形ということもある)、書体、書風の三指標を整理してみるとこうなる。

   字体 書体 書風
意味 文字の構造、骨組み 同じ字体の大きなスタイル上の区別 同じ書体の小さなスタイル上の区別
具体例 竜」(略字)と「龍」(旧字、正字)は字体が異なる 篆書・隷書・楷書・行書・草書・連綿・明朝体・ゴシック、ローマン体・サンセリフ体、オールドスタイル・モダンスタイル、ボールド・ミディアム・ライト、コンデンス・エクスパンド、等 同じ楷書でも王羲之顔真卿では書風が異なる、同じ明朝体でも築地体と秀英体では書風が異なる
備考 異体字(下図) 中国秦代:大篆(籀文)・小篆・刻符・蟲書・摹印・しゅ書・署書・隷書(『説文解字』)、中国新代:古文(壁中書)・奇字・篆書・左書・謬篆・鳥蟲書 活字書体の書風の豊かさに写植の文字盤やデジタル・フォントは遠く及ばない(30頁)


異体字(江戸時代から明治、昭和初期までよく遣われた文字)。読めない(^^;

このような文字の三層構造には、文字を扱う人間の側の三層構造が対応しているようだ。大雑把に言えば、字体上の違いは文字を作る物質的条件(何に刻印、表示されるか、等)を反映し、書体上の区別は時代や社会の状況や文化的特徴といった比較的客観的にとられらる大きな枠組みを反映し、書風の違いは個人的な感覚を反映する、と言った具合に。もちろんこれは厳密な区別ではなく、相互に若干乗り入れ合うのが実情である。

それにしても、書体と書風の概念上の区別、特に書風という概念を知っておくことは非常に大切であると感じた。それは文字というものがそもそも様々な具体的場面で人間の手によって書かれた、書、カリグラフィーであるという忘れがちな過去を現在に繋ぎ止めてくれる概念だからである。文字は書風を通してわれわれに届く。

どんな文字も始原の運筆の風、つまりは呼吸、無音の音楽(?)を運ぶ。(ねえ、Emmausさん[id:Emmaus、中山さんid:taknakayama

書体、書体といいながら、そんな文字の生命ともいうべき「風」を忘却しないためにも、「書風」という指標、概念を銘記しておきたい。

ちなみに、英語では「字体」は"form of a character"、「書体」は"type face"、そして「書風」は"style of calligraphy"である。

漢字は熱くてポップだ

ここまで来たら(実はどこにいるのか本人はまだよく分かっていないのだが)、避けて通るわけにはいかないなあと観念しているのが複雑な感情を抱いてしまう漢字という文字。いつの間にか私の奥深くに根付いて恐るべき力を発揮しているのが、今こうして文字を綴りながらも、その力を感じずにはいられない漢字。一方、古い漢字の書体、書風は見ているだけでゾクゾク、ワクワクする。


写真1 金文(「青銅器の碑文」部分)『組版原論』23頁、文字の赤ちゃんたちのようだ

写真2 (鳥)蟲書[(ちょう)ちゅうしょ](『説文解字』より)『組版原論』23頁、虫や鳥は表されていないが、一応(鳥)蟲書の書体に入るらしい

写真3a 大篆[だいてん]または籀文[ちゅうぶん](『説文古籀疏流』より)『組版原論』25頁、ゲゲゲの鬼太郎の父さんみたいのが沢山いる

写真3b 大篆[だいてん]または籀文[ちゅうぶん](『説文古籀疏流』より)『組版原論』25頁、眉毛と目と口の形の変化を見よ

写真3c 大篆[だいてん]または籀文[ちゅうぶん](『説文古籀疏流』より)『組版原論』25頁、動作と運動を区別して表そうとしているのか

写真4 垂露篆[すいろてん](『説文解字』より)『組版原論』27頁、なんと繊細な

写真5 小篆[しょうてん](『説文解字』より)『組版原論』27頁、彫ってみたくなる

漢字について府川充男氏は『組版原論』のなかでこう書いている。

漢字というのは最初から絵そのもの、図案そのものではなくて線条でして、既にそれなりに抽象化されたものです。そこに書道という美的な追求の可能性も開かれた。そもそも耳が識別できる情報に対して目の識別能力は百倍あるという話もあります。表音文字なんていうのは、その意味ではむしろ未熟な文字体系である。(中略)漢字のなかで本当の象形文字というのはごく少数でして、むしろ形声、つまり部首と音との組み合わせですとか、会意、部首の意味と部首の意味との合成というもののほうが多いんです(46頁)

たしかに、漢字は象形文字ではなくて優れて概念を表す文字であること、その図形性は素早い概念の操作性と優れた概念の記憶・想起装置として機能しているように実感する。漢字の一文字とアルファベットの一文字では「一」の意味が桁違いに違う。アルファベットだけの文字世界で生きるとなれば、漢字に替わる概念を表す綴り(スペル)の形姿をアタマに叩き込まなければならない。しかしその綴りの語形は漢字に比べるまでもなく「崩れ」やすい。府川充男氏によれば、それがアルファベット圏と漢字圏における失読失語症の現れの違いにも反映しているらしい*1

府川氏の「表音文字なんていうのは、その意味ではむしろ未熟な文字体系である」という見方、すなわちアルファベットは漢字に成り損なった文字であるという見方には一理あるような気がする。それに、西洋では昔から色んな記憶術が盛んだが、その一つの理由は漢字のような文字がなかったからだとさえ想像してしまう。

そんな漢字にも複雑な過去(歴史)がある。『組版原論』を読みながら、漢字の書体についてちょっとだけ整理してみた。空欄はいずれ埋めるつもりです。

書体 特徴 備考
甲骨文 BC1500年〜、骨を灼いてヒビの形から占った結果をその骨のヒビの脇に彫り込んだ文字資料 非常にシンプルな作り
金文 殷の末期から周の前期にかけて青銅器に鋳込まれた 基本的にシンプルだが時に装飾的。写真1
大篆 籀文[ちゅうぶん]ともいう。周の時代の地域的なローカル書体、六国では古文(壁中書) 奇字という呼称もあり。もっとも角張った書風を尚方大篆[しょうほうだいてん]という。写真3a, 3b, 3c
小篆 篆書ともいう。大篆を簡略化した書体、 写真4。垂露篆という優美な書風の書体がある(写真5)
隷書 左書ともいう。小篆書を簡略化 秦の俗体、筆記体がルーツ、『朝日新聞』の題字他現代でもよく見る
楷書 隷書の簡略化 北朝の楷書は隷書っぽい(→ 公式印刷用明朝体)、南朝の楷書は今の楷書に近い(→ 書道家の字体)
行書 隷書の簡略化 -
草書 隷書の簡略化 -
刻符 割印用 -
蟲書 鳥蟲書ともいう。旗や幟[のぼり]用 文字のエレメントが虫や鳥の形をした装飾文字、ハンコに使うこともあり
摹印[ぼいん] 謬篆[びゅうてん]ともいう。印章(ハンコ)用、瓦用 -
しゅ書 武器用 -
署書[しょしょ] 額用 -

*1:欧米の患者は文章がまったく読めなくなるのに対して、日本人の患者は漢字だけ読めて、ひらがなが読めなくなるという。49–51頁