codeで検知できないからこそ「深い」絶望なんだろう
多分、その兆候に対応するには、
http://d.hatena.ne.jp/workshop/20080616/p2
掲示板の巡回機能だけではうまく対応できずに、
プライベートな部分にも近接可能なアプリケーションが求められて、
そのうち、「自殺防止」という公衆衛生目的で、
「深い絶望を検知」した際には、管轄省庁への
当該者のおさいふケータイの情報提供や、
SNSのログ提出が義務づけられたり、
かかりつけ医師への情報提供がされたりするのかも。
…全く嫌な世の中になりそうだなぁ。
「絶望した! ○○に絶望した!」なんてどこぞの時事ネタギャグ漫画のようなわかりやすい形で絶望が言語化されるとはおもえないし、言語化したところでだれも理解できないというという位でないと深い絶望と呼ぶべきではないと考えています。
結果それこそ日々の言動で何が語られなかったかを監視することによってしか深い絶望は検知できないのではないでしょうか。その予防体制として監視システムがあったとしてもシステムを回避するように意識的、あるいは無意識的に行動するということは考えられてもよいとも考えています。
また余談ではありますが、この深い絶望のネタ元となったアンカテには
また、本当はやる気が全く無くて単純なイタズラ目的で犯行予告だけ行うケースもあります。「犯罪予告検知システム」はむしろ、これを助長する要素があると思いますが、これについても除外して考えます。
http://d.hatena.ne.jp/essa/20080617/p1
という記述もありましたが、犯行予告から検挙までの間に心変わりがあった結果として事情聴取時に「いたずら目的だった」というのは深い絶望としてカウントされるのかが気がかりだったりもします。
むしろ先の週末を17歳アルバイター少女のおかげでひやひやしながらすごした自分としてはこういった模倣犯が出ないようにするための情報倫理教育の必要性についてこそ議論するべきだと考えているのですが、ブロゴスフィアがその方向に向かっていないのがちょっと気になっています。