「サバイブ系」は「セカイ系」の対義語なのか?
メモ的に。
ヤンキー/オタク、体育会系/文化系、軍隊系/傭兵系の「方法」と「生き方」は、それぞれの対が独立している。
まとめると、
体育会系 | 文化系 | |
---|---|---|
ヤンキー | 右翼的軍隊的方法(例:旧日本軍) | 右翼的傭兵的方法(例:文壇、尾崎豊、ブルーハーツ) |
オタク | 右翼的傭兵的方法(例:デスマ) | 左翼的傭兵的方法(例:連合赤軍) |
という感じ。
「ブラック企業」と一括りにされるが、それが上記4つのどの方法をとっているかによって対応が異なる気がする。
自分が巻き込まれてしまった方法がどれに当たり、自分はどういう傾向を持っているかによってサバイブの方法が変わってくると思われる。
「ゼロ年代の想像力」という論説では、若者は90年代は「セカイ系=ひきこもり」的に社会に応対していたが、00年代では「サバイブ系=生き残り」的に社会に対応している、と言っている。
しかし、00年代の「サバイブ系=生き残り」は、果たしてオタク的なのかヤンキー的なのかというと、それは場面によって異なる気がする。
確かに、「論壇的想像力」のサバイブなら即オタク系の想像力だから、「右翼的傭兵的方法」で生き残りをかけることになり、デスマが横行する。
それが全てであるように見える。
しかし、上記論説は主に既存の文壇を扱ったものだから、言葉を持てない「動物」としてのヤンキー文化はほとんど取り上げられていない。
ヤンキー的な想像力での「サバイブ系」なら、「右翼的軍隊的方法」になる。
地域密着型で職人気質の仕事は、ヤンキー的な方法にあふれている。
それについては「ケータイ小説的。」という論説が優れている
http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20080609さん
けっきょくのところワルなんかしてても根っこのところはきわめて道徳的で、仲間をつくりたがり、なにかにすがりたがる性質があるところ。本書でも触れられているが「大人になりたい」という気持ちが強いからか、むしろ積極的に共同体に参加しては自分の居場所を確保し(ホントに商工会議所の青年部とか消防団とか祭りの役員をやってるあんちゃんは、たいてい「おれも昔やんちゃしたなあ……」といってるやつばかりだ)、さっさと結婚して子供をつくって後輩にクンロクをたれ、愛車に君が代入りの日の丸ステッカーを貼ったりする。ワルぶっていても、実際はつまらないくらいに体育会系で従順だ。
上記はヤンキー的文化が善に現れた場合だが、戦前の日本のようにはっきりと悪で現れる事もある。
「いじめの社会理論」という論説では次のような例が挙げられている。
昨日までおとなしい隣人だったおじさんが、消防隊の班長になって急に威張り始め、オタク系文化系の「よいとこの奥様」に対して消火訓練の名の下に何度も水を汲みに行かせ、どなりつけ、消耗させるようなことが良くあった。
「中間集団全体主義」がはびこりやすい日本の風土では、こういった「右翼的軍隊的方法」が中間集団をまとめ上げる方法となった。
身にふりかかる火の粉は払わなければならないが、前線から逃げて味方の元に返ったと思ったら別の敵国の軍隊だったなんてことになら
ないように、自分が属する集団の方法を見分けなければいけないと思う、残念だが。
少し前に、「マッチョ・ウィンプ論争」というのがあったが、僕は「『マッチョ・ウィンプ』の対概念は『負けた』と感じた人間の中に生じるもので、マッチョとは非「非ウィンプ」であり、その対が『ウィンプ』と言う構造をしている」と考えて、「マッチョ・ウィンプ」概念を実在的に捉えることは拒否した。(この構造は「非モテ」概念の構造とほぼ同一である。一言で言えば、「否定神学的」である)
「マッチョ・ウィンプ論争」を実在的に議論しようと思ったら、上記のような方法になると今は思っている。