「キャラ萌え」は作品の一要素ではない
海燕氏の見解に反して、「キャラ萌え」が作品の一要素ではないことは確かだ。もちろん作品の全要素だと言いたいわけではない。「キャラ萌え」はそもそも作品の要素ではない*1。作品の要素であるところの「キャラ」に読者なり観客なりが萌える、それが「キャラ萌え」なのだから。
しかし、ぼくにいわせれば、「キャラ萌え」を「抑圧」している時点で、「トータル」で作品を見る見方は阻害されているのである。
つまり、「キャラ萌え」とは作品の一要素なのだから、それを作品から排除してしまった時点で、既に「トータル」で作品を見れなくなっているのではないか。
いま引用した箇所の少し前で海燕氏は次のように言っている。
「キャラ」が作品の一要素であるという主張じたいにも疑問を投げかけることは可能だ*2が、そこまでの追及は行わない。いま、問題にしたいのは、この主張と、冒頭に掲げた主張との整合性である。「キャラ」と「キャラ萌え」の両方が作品の要素だという主張は維持できないのではないだろうか?
しかし、考えてみれば「キャラ」とはどこまでもいっても「作品」の一要素なのであり、「キャラ」と「作品」をこのように対置させることはおかしいようにも思われる。
むろん、海燕氏の用語法がルーズで、ここでいう「キャラ萌え」が実は「キャラ」に萌えることではなく、単に「キャラ」の言い換えに過ぎない、ということなら、整合性は問題にならない。同じ主張を二度繰り返しているだけに過ぎないのだから。海燕氏が言及している元記事オタクとは何か? What is OTAKU? | Web草思でも「キャラ」と「キャラ萌え」が厳密に区別されているわけではない*3のだから、海燕氏の用語法のみにケチをつけても仕方がない。
だが、話はそれだけでは済まない。
冒頭で引用した文章には、もうひとつおかしなところがある。それは、元記事の次の部分*4を読めばわかる。
この箇所は海燕氏も引用しており、その直後に冒頭で引用したコメントが付されている。こちらも要点を強調のうえ再掲しよう。
竹熊 抑圧してるわけだよね。キャラ萌えは勿論あるんだけども、そこは意図的にセーブするのが密教オタクの条件みたいなもので。僕についていえば、やはりトータルで作品は見るべきだという思いがどうしても強い。キャラ萌えだけではなくて、ストーリーとか作者の考え方とか、それ以外のディティールも含めて作品なのだと。ある意味古い考え方かもしれない。
「キャラ萌え」を「抑圧」するからこそ「オタク密教」になるわけで、それを「排除」してしまったら、そもそも宗教に喩えるべきものは何も残らなくなってしまう。海燕氏は言及先の記事を根本的に誤解しているように思われる。おそらく、海燕氏には作品受容を巡る「キャラ萌えvs.反キャラ萌え」という対立の図式がまず念頭にあって、それを「オタク顕教/オタク密教」と重ね合わせてしまったのだろう。残念なことだ。
しかし、ぼくにいわせれば、「キャラ萌え」を「抑圧」している時点で、「トータル」で作品を見る見方は阻害されているのである。
つまり、「キャラ萌え」とは作品の一要素なのだから、それを作品から排除してしまった時点で、既に「トータル」で作品を見れなくなっているのではないか。