古墳をめぐる水面をわたるのは死者か生者か。古墳の濠にかかる橋の跡発見?【大阪・堺】
今回、あえて間違えた文字が一つあります。(知らずに間違えた文字はもっとあるかもしれません)。ヒントは古墳時代の道具。答えは最後に。
=堺市提供(時事より)
大阪・堺市のニサンザイ古墳をめぐる濠と斜面にかけて、29個の柱穴が見つかったと、堺市がきのう(2013年2月21日)発表しました。
そこに橋がかかっていたのではないか、との推論が紹介されています。
棺は当然、外から運ぶのだけど、大きい古墳は水で満ちた濠で囲まれているわけです。じゃあどうやって運んだのかというと、船ではなく、橋だったみたいですね。
発掘した状況からは橋がそれほど長く立っていなかったようです。
肝心の棺を運んだら、橋をこわしちゃったのかもしれませんね。
死者がわたると二度と現世に戻れない橋
その名も「アンリターナブルブリッジ!」
(中二鋲発動中)
ニサンザイ古墳というのは、仁徳陵古墳などのある百舌鳥古墳群のひとつ。百舌鳥古墳群というのは、「河内」王朝説では5世紀の倭王たちのお墓です。
そんなわけで、今ちまたで話題の箸墓と同じく宮内庁に管理されていて、どの皇族の墓かはわからないけど天皇関係かもしれないということで、指定されている「陵墓参考地」です。
大きさは290メートルと、これまた箸墓の280メートルと近い。
ただ、時代はというと、箸墓より200年くらい新しい5世紀後半です。
ニサンザイは陵墓参考地で本体はいじれないけど、指定の範囲がせまいので、周濠などは市が調査しています。
堺市は21日、同市北区にある5世紀後半の前方後円墳「ニサンザイ古墳」で、墳丘の後円部の斜面から濠(ほり)にかけ、柱の穴の跡が計29個見つかったと発表した。柱穴は堤に向かって延びており、研究者らは水をたたえた周濠に橋が架かっていた可能性が高いとみている。
市によると、柱穴のうち25個は後円部の斜面と周濠の底で、まとまって見つかった。1.6〜2.1メートル間隔で7列に並んでいた。残り4個は堤の手前で見つかり、正方形に配置されていた。
柱穴は古墳の中心線上にあり、完成直前から直後に掘られたとみられる。柱穴の一部には木材が残っていた。粘土のたまり方から、柱が支えた構築物は一時的なものだったとみられる。(時事通信)
間違え探しの答えは、
中二病が「鋲」になったいた、でした。
5世紀(古墳時代中期)といえば、甲冑が進化して鋲どめになりました。
古代日本軍は朝鮮半島へ出兵することで、実戦を積み、兵器を進化させたためと言われています。↓
マニアック間違い探しでした。
5世紀後半の「河内」王朝のとき、どんなことがあったのか。半島出兵はどんな風に行われたのか。妄想ではなく、考古学の成果からそれが分かる一冊です。講座がもとなので、読みやすくてオススメ。