進化論的認識論と行動的無意味

− リードルの人間理解 −

山根 正気

夏の雨上がりの日に、道路にできた水たまりでトンボが無心に産卵しているのを目にすることがある。こうした水たまりが、数日もすれば干上がってしまい、また車に踏みにじられる運命にあることを考えれば、卵やヤゴが生き延びれるチャンスはほとんどないといってよい。トンボの一部の種は、水平におかれたガラス板や鉄板にまで産卵行動を示すことがあるらしい。何とおろかなことかと考える人もあろう。どうもこの馬鹿げた行動は、光を反射する面を水面とみなすことに起因するらしい。じっさい、人間の文明がトンボにとって迷惑なものをもたらすまでは、大抵の反射する面はトンボの幼生に適切な生活の場を保証していたのであろう。そのような環境で選択−−リードルのことばでは選別−−を受け進化してきたトンボにとって、産卵すべき場所を判断するのにそれだけで十分だったのであろう。それが証拠に、彼らはしっかりと子孫を現在に残しているのである。
さて、もしガラス板に産卵するトンボがじっさいにいるとすれば、それはこの本(『認識の生物学』)の著者リードルが「擬合理的行動の無意味」と呼ぶものに、まさにふさわしい。しかし、道路の水たまりの場合、やはり「擬合理的行動の無意味」がたいがいあてはまるだろうが、進化的にはいくぶん意味が異なる。というのは、事実そこには水があるのだし、もし片田舎の人通りの少ない所であれば、その水たまりは一時的に干上がるかもしれないが、つぎの雨でふたたび潤うかもしれない。孵化した多数のヤゴのなかで、もし多少の乾きにたえうる遺伝的な資質をもった個体がごく少数でも含まれていれば、それらの個体は親にまで成長するかもしれない。その形質は選別によって保存されるだろう。たしかに水たまりの深さや寿命(安定性)がなんらかの方法で測定できるとすれば、一部のトンボの種はそれを実行しているかもしれない。一方、そのような判定に時間をかけるよりも、一定以上の面積をもつ水面に無差別に産卵したほうがより多くの子をのこせる種にあっては、結果としての「無意味な」行動はめずらしくないはずである。しかし、上で述べたように、一見したところ無意味な行動も、新しい適応を獲得する引き金になりうるし、そこでは新しい選別の条件がはたらくであろう。このようにして、著者のことばをかりれば、遺伝子が学習し新しい行動のパターンが獲得されていく。
主として擬合理的装置にたよっている動物が、人類文明による環境の急激な改変のため、無意味な行動を余儀なくされるケースが急増しているだろうことは容易に想像がつく。リードルは、この論理を人間にまで拡張する。こんにち我々は、自然ゆたかな原始状態のなかでの学習により蓄積された旧態依然とした遺伝情報にたよって、自らが改変した環境のなかであがいているのではないかと。現代人にみられる「無意味な」行動は、トンボの空しい燦爛と同じだというわけである。これは、人間のもつ反省的な合理的装置(意識的理性)の歴史があさく、新奇な環境で生じることを適切に処理できないことによる、と彼は説く。こうした考えは、近代的動物行動学の確立者のひとりコンラート・ローレンツがつとに強調してきたものである。だが本当にそうなのであろうか。
細かな哲学的論議はさておくとして、本書を通読してなによりも安心感を与えてくれたのは、実在論によせる著者のゆるぎない信頼であり、また、帰納にたいする素朴かつ正当な評価である。生物の進化とは、じつは、環境のなかで自分たちの生活とかかわりの深い情報を、同時的あるいは経時的共在を手掛かりに帰納の助けで学習し、それによってえられた先入判断をもちいて自らをためしながら進行する過程であるとみる著者の立場には、ほとんど全面的に賛成である。そのようにふるまう生物のシステムを、擬合理的装置とよび、その生物が過去に選別された条件がこんにちも続いているとすれば、それはまさに合目的的とみられるわけである。生物のもつ合目的性をこのようにとらえる立場にたいして、著者は科学的目的論(テレオノミー)という表現をもちいている。さて、問題はこの先である。
生物個体がそなえている合目的性を疑う者はいまい。それには理由がある。個体は、今日的観点にたてば、遺伝子情報であるDNAをはこぶ「乗り物」であり、ふつうそこに宿るすべての遺伝子は個体と運命をともにする。そのため一般には、個体に宿る遺伝子、その指令によってつくられる器官、組織、行動は、個体の繁栄の「ために」協力しあう。したがって、自然選択の単位は遺伝子であるということがある意味でいかに正しかろうと、個体の統一性は生物界をみわたしたとき際だっているというのも事実である。しかし、なおかつ、個体を失敗に導くような遺伝子が存在することを強調しておかねばならない。生殖細胞(おもに精子)形成時における性染色体の分離比異常(マイオティックドライブ)をひきおこす遺伝子がその代表例である。短期的にはこの遺伝子は個体の利益を無視して急速にひろがるが、ふつうはほとんどの個体がオスになってしまい、集団が崩壊するとともにそのアウトロー遺伝子も自滅する。こうした遺伝子が出現しうるということは、合目的性を、個体においてすらけっして過信してはならないことを示唆する。
ところが、この本の著者は、合目的性の論理をいとも無批判に社会や種にまで拡張する。ローレンツの伝統をかたくなに守りながら、「…常に、最上位の目的は、…すなわち種の維持」であり、「原因は上位の層から、すなわち究極的には種の維持から発している」と説く。個体のもつ合目的性は種が原因となって存在するというのである。進化論的認識論という、認識論の系譜のなかではユニークな発想が、ここにきて陳腐な訓話と化してしまう。ここには、社会や種、さらには種間関係、生態系といった諸階層が、生物個体といかに異なるものであるかという分析はいっさいない。「種を維持するために生物はふるまう」という観念はすでに完璧に論破されてきたにもかかわらず、本書にはそうした批判への反論はおろか、関心すらしめされていない。
合目的性の原因を種の維持にもとめることが、いかに誤った結論を導くかをみてみよう。まず、リードルが考えているような種(有性生殖をするふつうの生物)ではない、「種」について考えてみよう。これらの「種」(たとえば、単為生殖をする動物)は、現象的には有性生殖の種とよく似たまとまり(形態的・生態的に類似した個体の集合)として存在するが、その類似性は交配をつうじてではなく、類似した選択圧におなじように反応した結果として存在する。そうした個体が相互に交渉しあい、まさに集合の存在が個体の生存を有利にする場合もないとはいえないが、ふつうはそのような仮定は不要である。彼らは原因となる種をもたないのに、合目的的な体構造をもち、合目的的にふるまう。この本の著者は、それらの合目的性の起源を説明する義務があるだろう。さらに、生命がいまだ種という様式を採用する以前にそなえていた合目的性(これなしには生存できなかったであろう)はどこからやってきたのかについても、説明されねばならない。
有性生殖をする種にあっても、社会や種というものは個体のような統一性をもってはいない。社会や群れの多くは、個体が自己の生存価を高める「ために」とった行動の結果として存在しているのであって、それらの集団につくすことが「目的」ではない。いいかえれば、集団は個体によって利用されるのであって、個体同志の搾取や反社会的(アウトロー的)行動が頻繁にみられるのは当然のことである。緊密な社会関係を必須の生存条件としている種においてのみ、社会の存在と個体の生存は運命共同体的な様相をおびるが、それでも個体は社会を崩壊させない範囲で社会とそのメンバーから最大限搾取しようとする。通常の種では、行動の判断は主として擬合理的なものであるから、つまり、蓋然性をたよりにしてなされるから、じっさいには結果として社会を崩壊させてしまうこともありうる。種にいたってはその統一性はさらにあやしい。種を生物個体のひとつ上位レベルにおける「個体」にたとえる議論もあるが、その場合でも含意されているのは遺伝的・時間的連続性の観念であって、構成要素たる個体に指令をだすたぐいのものではない。
以上のように、リードルの議論は根本的な欠陥をもっている。その欠陥は、彼が進化的な意味で選別ということばをつかうとき、ほとんどつねに種の外部からの作用に限定していることに、端的にあらわれている。彼にとって選別条件とは、種の外部からどの個体にもひとしくはたらくようなものである。このことは、一部の生物あるいは一部の形質についてはあてはまるかもしれない。しかし、本書が目的としている「人間性の解明」のためには、このアプローチはほとんど役にたたない。ダーウィンがすでに明確に指摘していたように、人間にとっての選別条件としては、天候や天敵などの外部条件ももちろん重要だが。反省的な合理的装置をもっとも必要としたのは社会のなかにおける人間関係であった。社会内での選別の強さは、人間が外的環境から相対的に独立するほどにたかまった。社会は個人がそのなかで繁殖を成功させるべき環境となったのであり、その環境は人間が合理的装置を獲得していく過程で際限なく複雑化し、同時に過酷なものとなった。合理的装置の歴史はリードルが強調するほど浅くはない。この分野における人間の能力は決してあなどるべきでない。
著者は、「人間は世界を改善したいと思っていながら、実のところそれを破壊してきたのである」というデルナーの一節を無批判に引用しているが、これほどのまやかしはない。人間は、明らかにまずいと考えられること(原発や核兵器など)であっても、多くの場合やめようとしない。こうしたことがおこるのは、合理的装置の未熟(複雑な事象にたいする見通しもよわさ)も原因の一部かもしれないが、原因の主要な部分ではない。世界を改善したいと思っている人がいないとはいわないが、世界はそれによって動いているのではなく、自己や利害をともにする集団の利益を追求するのに長けた人々が動かしているのである。これに「世界を改善しているのだと思い込んでいる人々」が大量に動員されているというのが真相にちかいのだろう。なぜある者は他を利用でき、ある者は利用されがちなのか。おそらく、人間は苛酷な社会のなかであまりに高度な合理的装置を進化させてきたため、その修得には高度に複雑な個体発生の過程をたどらねばならず、結果として修得の程度には大きなバラツキが生じるのだろう。そして、その過程は現実には教育というかたちをとり、教育自体は何者かによってコントロールされている可能性がある。世界が破壊されつつあるのは、人間が進化させてきた合理的装置そのものが未熟だからでは断じてない。リードルの議論は、人間社会における競争という明白な事実に目をつぶり、また擬合理的装置の核心をなすのが利己性であるという視点を完全に欠落している。このように、現代の進化学、行動学、社会諸科学の成果のほとんどを無視するやりかたで、人間性が理解されるとは到底考えられない。彼流のアプローチでは、価値の相対性、民主主義、国家のしぶとい存続といった根本的な概念に迫ることは不可能である。
リードルは、遺伝物質に変異が生じ、それに選別(自然淘汰)が作用し、有利な性質が保存される過程を、遺伝子の学習とよんでいる。このような比喩に反対する理由はない。進化をてっとりばやく説明するためには、比喩や目的論的な含みをもったことばをつかうことが便利だし、ときには避けられないからである。(私もこの書評でそのような表現を「 」つきで使用した)。しかし、多くの文科系の人にとって、「遺伝子の学習」という表現は誤解をまねくと思う。私の個人的経験では、生物哲学を論じる文科系の人の多くが、自然選択について理解するのに根本から失敗している。多少は遠回りと思われるかもしれないが、進化過程を理解するためには集団遺伝学のテキストを読んでみることをお薦めしたい。
それがどうしてもおっくうな場合、せめて、通俗書であるドーキンスの『利己的遺伝子』(紀伊國屋書店)に目をとおしていただきたい。リードルが、遺伝子の学習ということばのもとに、自然選択についてある程度理解しているのは事実だろうが、その理解はきわめて限定された意味においてでしかない。それは、すでに指摘したように、社会的選択を選択からほぼしめだしてしまっているからである。社会的選択こそが、推理力にもとづき判断をくださせる意識的理性を進化させてきたことを考えれば、リードルの理解不足は致命的である。人類の未来によこたわる暗い影が、合理的装置の未熟によるのではなく、逆にその習熟によるのだとすれば、我々はいったいどうすればよいのか。まずは「未熟ゆえの失敗」というデマを粉砕しなければならないだろう。そして、多くの人が真実を知ったとき、何か新しい道がひらけるかもしれないし、あるいはそれも無力と化するかもしれない。生物個体は決して種を維持すべく進化してきたのではないということが、種を救うという「偉大な」事業の前途多難を予測するのである。