まだ有馬記念の悪夢のことがときどき思い浮かんできて、ウジウジと後悔しながら廊下を歩いていたら、ベテランの職員さんに呼び止められ、「先生、有馬記念どうでした?」と尋ねられた。
場外馬券売場で僕を見かけたらしい。
「いやーサッパリだったよ。エイシンフラッシュとかありえん」と答えたら、「そうですよねー、あんなの当たるわけないですよねー」と、手短かに愚痴り、顔を見合わせて苦笑い。
ああ、なんか気分的にすごくラクになった。
そうだよね、あんなの当たんないよね。今年の秋の戦績からすれば、オルフェは当然としても、相手にはブエナとかジョーダンとかが来ると思ってたよなみんな。
だからオルフェの2着が去年のダービー馬エイシンフラッシュでも、馬連3200円もついたわけで。
高配当は、外れた人が多いことの証拠でもある。
でも、ネットでは、「あんなの当たるわけないよねー」っていう、ごくふつうの「共感」が、なかなか得られないのだ。
あんな超スローペースのレースになってしまったことや、ブエナビスタが全く見せ場無しだったことに対する騎手や馬への罵声とか、当てたヤツの「エイシンフラッシュを買えないヤツは養分」というような「競馬上級者としての、上から目線の解説」とかばかりが、ついつい目に入ってしまって、やさぐれた心が、さらに荒んでしまう。
ネットというのは、「極論」が目立ちやすい場所で、「何か言いたい人たち」が集まってくる場所。
ヘタに弱音を吐くと、「水に落ちた犬を打つ」ような言葉を浴びせられやすい。
(ただし、「僕がネットのなかのそういう場所にばかり出入りしてしまっている」という面も否定はできない)
「あんなの当たるわけないよ。俺も外れちゃった。まあ、競馬なんてそんなもんだからしょうがない」
僕はただ、そんなふうに、誰かに「共感」してほしかったのだ、きっと。
目の前の人に「あんなの当たるわけないですよね」と言われてみて、ようやくわかった。
僕がネットをはじめた10年前くらいには、弱音を吐くと、共感してくれたり、励ましてくれたりする人が多かった。
ところが、今は、「弱音を吐いた人や、ちょっとおかしなことを言った人」は、容赦なくバッシングされる。
「共感」どころか、「隙をみせずに発言する」ことが要求される。
「隙を見つけたら、とことん引きずり下ろそうとする」人たちがたくさんいるから。
鴻上尚史さんが2006年に書かれた『孤独と不安のレッスン』という本のなかに、こんなことが書いてある。
「インターネットの一番の問題点は何だか、鴻上さんは知っていますか?」と、僕の芝居に来たお客さんが見終わった後、アンケートに書いてくれたことがありました。
「熱中して学校に行かなくなるとか、仕事がおろそかになるとか、夫婦関係が崩壊するとかじゃないんです。そんなことは、二次的なことです。一番の問題点は、『簡単になぐさめられること』なんです」
僕も何度も「簡単になぐさめられてもらった経験」があるので、この「問題点」、とてもよくわかる。
「簡単」であるがゆえに、それに依存してしまい、「現実に立ち向かう困難」を放棄してしまいがち。
逆に、インターネットって、なぐさめる側もけっこう簡単になぐさめてしまう面がある。
その一方で「簡単に傷つけられてしまうこと」も少なくないのだけど。
ただ、最近では、「インターネットでも、そう簡単になぐさめてはもらえない」ようになってきている。
むしろ、今回の僕のように「インターネットで受けた傷が、身近な人間関係でなぐさめられる」ことさえ、少なくない。
10年前は、現実が戦場で、ネットは野戦病院だった。
でも、いまは、ネットこそがもっとも油断のならない戦場になっている。
現実も、相変わらず戦場のままなのだけれども。