元医師の父が選んだ「自然死」 【前編】 延命治療は必要ない---医師の親子が考える「理想の死に方」
久坂部 羊(作家・医師)最近、「自然死」とか「平穏死」という言葉をよく耳にする。以下、合わせて自然死とするが、自然死とは、平たく言えば、ほとんど医療を行わない死である。もちろん、見放したり、ほったらかしにするのではない。治療はせず、温かく見守りながら看取るのである。
私は外務省の医務官を務めたあと老人医療の世界に入り、在宅医療のクリニックに勤務して、多くの患者を家で看取ってきた。その経験から、自然死には大いに共鳴している。
死は恐ろしくて苦しいから、何とか治療をしてほしいというのが一般の感覚かもしれないが、今は医療が進みすぎたため、治療が死を逆に悲惨なものに変える危険が高まった。だから、何もしないで見守るのがよいのである。
私事で恐縮だが、私の父はかねてから自然死を望んでおり、その言葉の通り死を目前にして、治療らしいことは何もしなかった。家族も父の死を受け入れ、穏やかに見守りながらそのときを待った。ところが、世の中は思い通りにならないもので、父は今も死なずに療養を続けている。その経験を踏まえて、自然死の実際を考えてみたい。
自然死のための条件とは
一九七○年代ごろまでは、医療はまだまだ非力だったので、それほど人の死を妨げることはなかった。ところが、八○年代以降、さまざまな延命治療が発達し、患者が簡単に死ななくなってしまった。「死なせない医療」の登場である。これは「生かす医療」とは似て非なるものだ。
患者は意識もなく、身動きもならず、身体に何本もチューブを入れられ、器械と薬で無理やり心臓を動かされるというきわめて非人間的な状態となる。最悪の場合は腕や脚が丸太のようにむくみ、まぶたはゴルフボールのように腫れ上がり、口、鼻、耳から出血し、肛門からはコールタールのような下血があふれ、黄疸で皮膚は黄褐色になり、部屋には悪臭が満ち、見るも無惨な状態になりながら、命を引き延ばされる。