天秀尼

江戸時代前期の女性。尼僧。鎌倉東慶寺20世住持。母は小石の方(成田助直(吾兵衛)の娘)

天秀尼(てんしゅうに、慶長14年(1609年) - 正保2年2月7日1645年3月4日))は、江戸時代前期の女性。臨済宗の尼僧。豊臣秀頼の娘で、千姫の養女。鎌倉尼五山第二位・東慶寺の20世住持。天秀は法号で、法諱は法泰(ほうたい)。院号は授かっていない。

てんしゅう ほうたい に

天秀法泰尼
天秀尼像(東慶寺蔵)
生誕 慶長14年(1609年
死没 正保2年2月7日1645年3月4日
墓地 東慶寺神奈川県鎌倉市
別名 [一説に]奈阿姫[一説に]泰姫[注釈 1]
宗教 仏教臨済宗
父:豊臣秀頼、実母:成田助直の娘、養母:千姫
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生涯

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出生から出家まで

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母の名も[1]、出家前の俗名も不明である[注釈 1]。 記録に初めて表れたのは大坂城落城直後でありそれ以前には無い。同時代の日記『駿府記』[4][注釈 2]に大坂落城の7日後の元和元年(1615年)5月12日条に「今日秀頼御息女(七歳)、従京極若狭守尋出捕之註進、秀頼男子在之由内々依聞召、急可尋出之湯由所々費被触云々」とあるのが初出である。

なお、『台徳院殿御実紀』[注釈 3]巻37、元和元年5月12日条には「これは秀頼の妾成田氏(吾兵衛助直女)の腹に設けしを」とある[5]が、『台徳院殿御実紀』は19世紀前半に編纂されたものであり、同時代の史料には見られない。また、『台徳院殿御実紀』は「京極若狭守は秀頼息女八歳なるを捕えて献ず」と八歳と記しているが、同時代史料では、『駿府記』のほか大坂落城の10日後の細川忠興書状などでも七つとなっており、慶長14年(1609年)の生まれと見られる。

同母か異母かは不明ながら、天秀尼の年子の兄・国松は直後の5月21日に捕らえられ、23日に六条河原で斬られたことが『駿府記[6]』『台徳院殿御実紀』[7]にある。

しかし天秀尼の方は千姫の養女として寺に入れることを条件に助命された。『台徳院殿御実紀』前述の5月12日条には「北方(千姫)養ひ給いしなり」と、大坂城内に居た頃から千姫の養女であったとも読める記述があるが、東慶寺の由緒書には「大坂一乱之後、天樹院様(千姫)御養女に被為成、元和元年権現様依上意当山江入薙染、十九世瓊山和尚御附弟に被為成」[8]と記されている。「大坂陣山口休庵咄」[9]などにも、国松は7歳まで乳母に育てられ、8歳のとき、祖母・淀殿の妹の京極高次妻・常高院が、和議の交渉で大坂城に入るとき、長持に入れて城内に運びこんだとあるため、天秀尼もそれまでは他家で育てられ、国松と同時期に大坂城に入り[10]、落城後に千姫の養女となったと見られる[11]

東慶寺入山と出家

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20世天秀尼木像。関東大震災で頭部以外は激しく損傷し、修復不能だったが、震災から70年後に以前の写真が見つかり、現在の状態に修復した[12]。左が霊牌。

同時代史料としては、元和2年(1616年)10月18日にイギリス商館長リチャード・コックスが松が岡を剃髪した女性の尼寺として紹介し、「秀頼様の幼い娘がこの僧院で尼となってわずかにその生命を保っている」[13]と書いている。

出家の時期は先の東慶寺の由来書に「薙染ちせん[注釈 4]瓊山尼けいざんに[注釈 5]の弟子となる。時に八歳」[14]とあり、また霊牌(位牌)の裏に「正二位左大臣豊臣秀頼公息女 依 東照大神君之命入当山薙染干時八歳 正保二年乙酉二月七日示寂」とある。従って、出家は大坂落城の翌年の元和2年、東慶寺入寺とほぼ同時期となる。出家後の名は天秀法泰[注釈 6]

東慶寺北条時宗夫人・覚山尼の開山と伝わり、南北朝時代後醍醐天皇の皇女・用堂尼が住持となり、室町時代には鎌倉尼五山第二位とされた。代々関東公方古河公方小弓公方の娘が住持となっている。尼寺でこの格式ということから天秀尼の入寺する先として東慶寺が選ばれたとされる[要出典]。また師・瓊山尼の妹・月桂院は秀吉の側室で、秀吉の死後江戸に移り、家康の娘振姫に仕えていた。東慶寺住職だった井上禅定は天秀尼の東慶寺入寺は「恐らく月桂院あたりの入知恵と推察される」とする[15]

参禅

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天秀尼は東慶寺入山から長ずるまでは十九世瓊山尼の教えを受けていただろうが、塔銘によれば円覚寺黄梅院の古帆周信に参禅したとある。古帆周信は中国臨済宗楊岐派の幻住中峰禅師[16]に始まる幻住派である[注釈 7]

また沢庵宗彭に参禅しようとしていたことが、沢庵の書状により明らかになっている。書状には8月29日と日付はあるが、年は書かれていない。沢庵は寛永16年(1639年)より江戸に戻り、徳川家光によって創建された萬松山東海寺の住持となっている。東慶寺の住職だった井上禅定は、天秀尼が参禅していた古帆周信が寛永18年(1642年)2月1日に示寂しているので、沢庵に参禅しようとしたのはそのあとではないかとする[17]

権現様御声懸かりの縁切寺法

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東慶寺は縁切寺法をもつ縁切寺(駆込寺)として有名であるが、江戸時代に幕府から縁切寺法を認められていたのはここ東慶寺と上野国満徳寺だけであり両方とも千姫所縁である。寺の伝承では、天秀尼入寺の際、家康に文で「なにか願いはあるか」と問われて「開山よりの御寺法を断絶しないようにしていただければ」と答え、それで同寺の寺法は「権現様御声懸かり」となったとある[18]

満で云えば6 - 7歳の子供と家康のやりとりが本当にあったのかは確認出来ないが、江戸時代を通じて寺社奉行に提出する寺例書や訴訟文書ではこの「権現様御声懸かり」の経緯を述べて寺法擁護の最大の武器としたこと[19]、実際に東慶寺の寺法に幕府の後ろ盾があったことは確かである。縁切寺法と一般にはいわれるが夫婦の離婚にだけ関わるものではなく、中世以来のアジール(無縁)の性格を持つ。

会津四十万石改易事件

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天秀尼の千姫を通じた徳川幕府との結びつきの強さを物語る事件に会津騒動とも云われる加藤明成の改易事件がある。事件の記述は『大猷院殿御実紀』[注釈 8]巻53、寛永20年(1643年)5月2日条にある[20]が、『大猷院殿御実紀』には改易の事実を記したあとで、「世に伝うる処は」と経緯を記している。従ってその経緯は幕府の記録(日記)に基づくものではない。また、その「世に伝うる処」の内容は作者不明の『古今武家盛衰記』の記述[21]に酷似している。しかしながらその両方ともに東慶寺も天秀尼も出てこない[注釈 9]

天秀尼と事件の関係を記した史料は正徳6年(1716年)に刊行された『武将感状記[22]という逸話集と、文化5年(1808年)に水戸藩の史館で編纂された『松岡東慶寺考』である。『武将感状記』巻之十の「加藤左馬助深慮の事/付多賀主水が野心に依て明成の所領を召上げらるる事」にこうある[23]

その身は高野に入り、妻子は鎌倉の比丘尼所に遣わしぬ。・・・鎌倉に逃れたる主水が妻子を、明成人を遣わして之を縛りて引きよせんとす。比丘尼の住持大いに怒りて、頼朝より以来此の寺に来る者如何なる罪人も出すことなし。然るを理不尽の族(やから)無道至極せり。明成を滅却さすか、此の寺を退転せしむるか二つに一つぞと 、此の儀を天樹院殿に訴へて事の勢解くべからざるに至る。此に於て明成迫って領地会津四十余万石差上げ、衣食の料一万石を賜りて石見の山田に蟄居せらるる。

「天樹院殿」(千姫)が出てくるので「比丘尼所」(尼寺)とは東慶寺のこと。「比丘尼の住持」とは天秀尼のこと、「天寿院」ではないので千姫没後に書かれたものと判る。もうひとつの「松岡東慶寺考」には

住持大いに怒り古来よりこの寺に来る者いかなる罪人も出すことなし。しかるを理不尽の族無道至極せり。明成を滅却せしむるか、此の寺を退転せしむるか、二つに一つぞ

とあり、「頼朝より以来」は「古来」に修正されているが、それ以外は上記『武将感状記』下線部分とまったく同じである。『武将感状記』は「成田治左衛門亡妻と契る事」などと『雨月物語』まがいの話まで載せている逸話集であり、そのまま事実とみなす訳にはいかないが、当時、将軍家所縁の鎌倉の尼寺が加藤明成の引き渡し要求に応じなかったことが広く知られていたということは解る。堀主水の妻は確かに東慶寺の天秀尼に命を助けられていたことが近年判明した。その妻の墓が会津にあり、かつその妻が事件後に身を寄せていた実家の古文書の跋文に経緯が書かれていた[24]

(天秀尼は堀主水妻を)忝くも戒弟子となされ、剰え宝光院観誉樹林尼と法名を給わり、命を与え給ふ事強く頻なり。されば明成殿も御威光置きかたく宥(ゆる)して、先祖黒川喜三郎貞得(主水妻の兄)に扶助すべしと給わりたるより…

つまり明成が折れて、堀主水の妻は会津加藤家改易より前に会津の実家へ帰ったと。それも「明成殿」から「給わりたる」と。つまり堀主水妻の身柄は明成の元にあったということになる。これが事実とすれば『武将感状記』に記された結末は短絡しすぎで不正確であり、「事の勢解くべからざるに至る」ではなく「解けた」ことになる。両方をつなげて整合性を取るなら、会津藩の武士が東慶寺から堀主水の妻達を寺側の制止を振り切って強引に連れ去ったが、天秀尼の猛烈な抗議に折れて以下跋文の通りとなる。両方とも後世の文書であるので正確性には欠けるが、いずれにせよ堀主水の妻は東慶寺に駆け込んでおり、かつ天秀尼が義母千姫を通じて幕府に訴えて、その助命を実現したことだけは判る。

死去と墓所

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天秀尼の墓。左は台月院の宝篋印塔。

天秀尼は、霊牌および寺伝により、正保2年(1645年)2月7日、会津加藤家改易の2年後、37歳で死去した。長命であった千姫は、娘の十三回忌に東慶寺に香典を送っている。天秀尼の墓は寺の歴代住持墓塔の中で一番大きな無縫塔(右の写真の中央、丸いもの)である。墓碑銘は當山第二十世天秀法泰大和尚

側に「台月院殿明玉宗鑑大姉」と刻まれた宝篋印塔があり、「天秀和尚御局、正保二年九月二十三日」と刻銘がある。天秀尼の死去の約半年後である。この墓は「天秀和尚御局」と刻銘があるので天秀尼の世話をしていた人で、世話と云っても、墓は格式のある宝篋印塔で「御局」とあり、戒名が「院」ではなく「院殿」であることから、ただの付き人ではなく相当に身分の高い人、かつ尼ではない一般在家の女性であることは確かである。東慶寺の住職・井上正道は、東慶寺にかなりの功績のあった人物か、もしくは天秀尼が相当の恩義を感じていた天秀尼にとっての功労者。あるいは 常に天秀尼のそばにいて、天秀尼を教育した人物。天秀尼の心の拠り所であり、天秀尼の心の支えであったのではないかと推測している。ただし「寺にはこの人物についての文献、伝承も一切なく、ただ墓のみが残っている」という[25]。歴代住持墓塔のエリアに在家(出家していない人)の宝篋印塔があることは極めて異例である[注釈 10]

東慶寺に残る天秀尼

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豊臣家との関係を示す物

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父・秀頼菩提の雲板

元和元年5月12日に捕えられた秀頼息女が東慶寺に入寺したと記されている『台徳院殿御実紀』は19世紀前半の編纂であり、同時代の日記である『駿府記』その他にはない。

漆器・蒔絵の世界では高台寺蒔絵に次いで東慶寺伝来蒔絵が有名であるが、その中に豊臣桐の紋・五七の桐の描かれた漆器も残されている。ただ、桐紋は江戸時代の『寛政重修諸家譜』では473家が使用しているほど一般的な家紋であり、これは天秀尼のものかもしれないが、そうだとは断定できない。

しかし東慶寺には 寛永19年(1642年)に父・秀頼(法名崇陽寺秀山)菩提のために天秀和尚が鋳造したとの銘文のある雲版うんばん[注釈 11]が残されており、鎌倉市文化財に指定されている。

また、過去帳には、元和元年(1615年)5月23日に満世院殿雲山智清大童子とある。この日は豊臣秀頼の子・国松が京都六条河原で処刑された日である。

もうひとつの豊臣家との関係を示す物は、同時に千姫との関係を示す物でもある。

千姫との関係を示す物

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東慶寺に伝える棟板に以下の墨書銘がある[注釈 12]

表面・右
大旦那征夷大将軍太政大臣従一位源朝臣秀忠公御息女天寿院御建立焉
表面・左
維持 寛永十一年十月吉日 住持関東公方家左兵衛督源頼純息女法清和尚
弟子右大臣従二位豊臣朝臣秀頼公息女法泰蔵主御寄進
裏面
当大樹乳母春日局御執持焉
 
駿河大納言御殿移築の書院は関東大震災で倒壊し、同じ間取で再建された。一部に旧材を使用。

表面・右の「天寿院」は千姫の生前の号、没後は「天樹院」と同じ読みでも字を変えている。表面・左の「法清和尚」は東慶寺十九世・瓊山法清尼、「秀頼公息女法泰」が天秀法泰尼である。裏面の「大樹」は将軍のことを指し、「当大樹」とは当時の将軍・徳川家光のことである。その「乳母めのと春日局は、この頃大奥の公務を取り仕切っていた。

東慶寺の寺例書には「駿河大納言様の御殿御寄付…客殿方丈等右御殿を以てご建立遊ばされ今に有」とある。「駿河大納言」とは家光や千姫と同様に淀殿の妹・崇源院を母にもつ徳川忠長であり、寛永10年(1633年)12月6日に28歳で切腹。その屋敷の一部が解体されて東慶寺に寄進されたのはその翌年の寛永11年(1634年)である。このような墨書銘は古建築の屋根の改修工事[注釈 13]のときなどに見つかる。

「住持・法清和尚」・「弟子・法泰蔵主」とあるので、当時20代なかばであった天秀尼はまだ二十世住持にはなっていなかったことになる。「蔵主」(ぞうす)は禅宗寺院の住持を支える役職のひとつ[注釈 14]である。

寺伝や編纂物の歴史書以外に千姫との関係を示すものに書状等が十数通あり、『鎌倉市史』編纂時の昭和29年(1954年)に高柳光壽により整理解読された。その中には千姫にびわ・筍・花などを送ったことへの千姫侍女筆の礼状などもある。

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 一部に「奈阿姫」とするものもあるが、その史料上の根拠は無い。三池純正は著書で仮の名を泰姫としているが、これは出家後の名「天秀法泰」の諱「法泰」から東慶寺を指す系字「法」を避け「泰」の字を採ったもので、仮の名であることを断っている[2]。また、川口素生も「出家前の名、俗名は不詳です」としている[3]
  2. ^ 慶長16年(1611年)8月1日から元和元年(1615年)12月29日までの約4年半に及ぶ徳川家康周辺の記録・日記。この間に大坂の陣があった。筆者は後藤光次林羅山ともいわれるが不詳。同時代で家康の周囲での記録であるため史料価値は高いとされる。
  3. ^ 台徳院殿とは二代将軍秀忠の戒名。
  4. ^ 「仏門にはいる、出家する」という意味。
  5. ^ 東慶寺十九世の瓊山法清。小弓公方・足利義明の孫で足利頼純の娘。
  6. ^ 天秀が号、法泰がであり、その諱の1字目の「法」は、東慶寺の系字(江戸時代には東慶寺の尼は全て諱の1字目は「法」)である。
  7. ^ 幻住派については『円覚寺史』 第六章第二節等に記されている。黄梅院は足利尊氏夢窓疎石の塔所として建立した塔頭で、室町幕府二代将軍・足利義詮の遺骨が分骨されて以降、足利氏の菩提寺としての性格を帯びる。室町時代から江戸時代にかけての東慶寺住持は天秀尼以外はすべて関東公方家であり、当初天秀尼の師であった十九世瓊山尼も足利氏の出である。その関係で天秀尼も黄梅院の古帆周信に参禅したと思われる。天秀尼の後、二十一世住持となった永山尼も足利氏(喜連川)の出であり、「嗣法系図」には「幻住中峰禅師…、古帆周信、謹中是□、永山法栄」とある。円覚寺では元旦深夜に総門、山門、他の塔頭はみな三鱗(北条氏の紋)の提灯を門前に掲げているのに、黄梅院だけは足利氏の紋である。
  8. ^ 大猷院殿とは三代将軍・家光の戒名。
  9. ^ ただし、『古今武家盛衰記』 には「相州鎌倉へ赴く」「鎌倉を立ち退き、紀州高野山へ登り忍び居す」とはある。
  10. ^ 墓と戒名の格式から、後世の史料に天秀尼が7歳まで預けられていたとされる三宅善兵衛の妻では有りえない[26]。一方で一部の書籍にあるような甲斐姫説にも史料批判に耐えうる裏付けは無い。
  11. ^ 禅宗寺院で庫裏や斎堂などに掛け、食事・法要などの合図に打ち鳴らす雲形の板。鐘板しょうばん打板ちょうばん、更に火版、長板、斎板などの別称がある。青銅または鉄板製であるが、東慶寺のものは青銅である。日本には鎌倉時代に禅宗とともに伝えられた。なお、円覚寺の禅堂(修行道場)には同じ用途の、木の板を使った打板が今も使われている。ただしこれは雲形ではない。
  12. ^ 実物は2013年4月16日 - 7月7日の「東慶寺二十世 天秀尼展」で公開されており、また永井路子の『天秀尼』にその写真がある[27]
  13. ^ 例えば東村山の国宝建築物・正福寺地蔵堂では、復元解体工事の祭に発見された尾垂木尻持送りに墨書銘が発見され、応永14年(1407年)の建立と解った。そこから、同一様式である元太平寺の仏殿(現在円覚寺舎利殿)も1407年頃、あるいはそれより少し後と建築史界の評価が定まったりしている[28]
  14. ^ 中国南宋時代の禅宗大寺院では住持を頂点に100名を越える僧がおり、その寺院運営の為に役僧を東班(寺院の経営を担当)・西班(修行を担当)に分けた。蔵主(ぞうす)は西班の頭首(ちょうしゅ:管理職)のひとつで、経典を管理する僧職である。頭首には首座(しゅそ)・書記・蔵主・知客(ちか)・知浴(ちよく)・知殿(ちでん)がある。このうち首座・書記・蔵主は、住持の代わりに法堂の法座に登り払子(ほっす)をとって説法をすることもある重要な役職である[29]。ただし東慶寺は格は高くとも建長寺や円覚寺のような大寺院ではないので、この場合の「蔵主」とは実際の職務ではなく肩書・地位の呼称である。

出典

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  1. ^ 三池 2013, pp. 45–46.
  2. ^ 三池 2013, p. 46.
  3. ^ 川口.
  4. ^ 史料雑纂2収録。元和元年5月12日条はp.303
  5. ^ 徳川実紀2 p.41
  6. ^ 史料雑纂2。「駿府記」元和元年5月21日条および23日条 p.303
  7. ^ 徳川実紀2収録。元和元年5月21日条はp.42、5月31日条はp.43
  8. ^ 鎌倉市史・寺社編 p.346
  9. ^ 續々群書類從 収録
  10. ^ 三池 2013, pp. 120–123.
  11. ^ 川口 2011, p. Q.62.
  12. ^ 井上 1995, p. 208.
  13. ^ 高木 1987, p. 126.
  14. ^ 井上 1955, p. 48.
  15. ^ 井上 1955, p. 51.
  16. ^ 原田弘道「中世における幻住派の形成とその意義」『駒澤大學佛教學部研究紀要』第53巻、1995年、21-35頁、ISSN 04523628NAID 110007014987 
  17. ^ 井上 1955, pp. 55–57.
  18. ^ 井上 1976.
  19. ^ 井上 1955, pp. 48–51.
  20. ^ 徳川実紀3pp.312-313
  21. ^ 古今武家盛衰記 巻第十六 「四十万石 加藤式部少輔明成」 pp.311-318
  22. ^ 武将感状記 巻之十
  23. ^ 武将感状記 pp.511-252
  24. ^ 井上 1976, pp. 32–33.
  25. ^ 三池 2013, pp. 158–160.
  26. ^ 三池 2013, p. 165.
  27. ^ 永井 1977, p. 31.
  28. ^ 関口 1997, pp. 116–119.
  29. ^ 関口 1997, pp. 71–72.

参考文献

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史料
  • 国書刊行会編『續々群書類從4巻(史伝部2)』続群書類従完成会、1907年9月。 
  • 黒川真道編『古今武家盛衰記. 1』国史研究会、1914年。 
  • 博文館編輯局編『武将感状記』続群書類従完成会、1941年。 
  • 国書刊行会編『史料雑纂第二』続群書類従完成会、1974年。 
  • 黒板勝美編輯『国史大系第39巻 新訂増補 徳川実紀 第二篇』吉川弘文館、1990年。 
  • 黒板勝美編輯『国史大系第40巻 新訂増補 徳川実紀 第三篇』吉川弘文館、1990年。 
書籍
  • 鎌倉市史編纂委員会『鎌倉市史・考古編』吉川弘文館、1959年3月。 
  • 鎌倉市史編纂委員会『鎌倉市史・寺社編』吉川弘文館、1959年10月。 
  • 円覚寺編『円覚寺史』春秋社、1964年。 
  • 井上禅定『駆入寺-松ヶ岡東慶寺の寺史と寺法』文藝春秋、1955年10月。 
  • 井上禅定『駆込寺』文藝春秋、1976年6月。 
  • 井上禅定『東慶寺と駆込女』有隣堂、1995年6月。 
  • 永井路子『天秀尼』東慶寺文庫2012年再録、1977年。 
  • 高木侃『三くだり半―江戸の離婚と女性たち』平凡社選書、1987年3月。 
  • 関口欣也『鎌倉の古建築』有隣堂、1997年7月。 
  • 川口素生『お江と徳川秀忠101の謎』PHP研究所、2011年4月。 
  • 三池純正『のぼうの姫 秀吉の妻となった甲斐姫の実像』宮帯出版社、2012年。 
  • 三池純正『豊臣家最後の姫』洋泉社、2013年1月。 

外部リンク

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