なぜ社会学の格差研究はややこしいのか(その二)
前回説明したように階層とは価値付けされた資源へのアクセスの格差であり、あくまで人々による資源の価値付けに依存した社会構造の記述である。したがって多くの人に共有された価値付けがない資源については、そういった資源へのアクセス格差を議論することにあまり意味はない(たとえばマニア向けアイテムの所持格差など)。
そのうえで、社会学では主に二つの資源格差の源に注目する。職業と学歴である。このなかでも特に職業が重視される*1。理由は様々であろうが、時点時点での所得よりも人々の経済階層の全容を反映しやすいこと、名誉の源泉となりやすいこと、といった事情がある。
社会学の階層研究にはさまさまなバリエーションがあるが、目立つのは前回触れた「階層帰属意識のメカニズム」の研究と、「両親階層による本人到達階層の不公平(階層の再生産)」の研究である。前者を引っ張っているのは高坂健次先生や吉川徹先生である。後者にはより多数の研究者が取り組んでいるが、やはり『社会学評論』にSSM2005データを利用した比較的新しい研究成果やレビューがあるので、参照してほしい*2。
さて、では「階層帰属意識」についての主観と客観が「関連する・関連しない」とか、両者がズレをみせる、というのは、資源格差の価値付けへの依存を考えるに理解しやすい現象であるともいえそうだが、よくよく考えると話は単純ではない。「中流意識」についてはまだしも、「(不)公平感」となると、検討において少々複雑な準備が必要になる。
階層についての「主観と客観の関連」というとき、平等と公平(機会平等)を区分するとすれば、まず平等については、
- 研究者が何らかの客観的(=算出方法が十分に説明された際に比較的異論が出にくい)基準から測定した社会の平等性(たとえば所得のジニ係数)
- 一般人が主観的に考えている社会の平等性(「日本社会は平等な社会だと思いますか?」)
- 個人の階層帰属についての主観的な位置づけ(「あなたはどの階層に所属していると思いますか?」)
...この三つの関係を考えることができる。同じく公平性についても、
- 研究者が何らかの客観的基準から測定した社会の公平性(たとえば開放性係数)
- 一般人が主観的に考えている社会の公平性(「日本社会は努力が報われる公平な社会だと思いますか?」)
- 個人の階層帰属が公平かどうかについての考え(「あなたが現在の地位にいるのは公平な結果だと思いますか?」)
...の三つを考えることができる。
これらの関係は、もちろん単なる「主観的評価の客観的評価からのバイアス」として扱うことも可能であるが、その「バイアス」自体を一連の「解かれるべき謎」として設定するところに社会学階層意識論の特徴がある。そして「バイアス」のみなもとについては、(吉川先生が前回紹介した論文で説明しているとおり)歴史的に特殊な制度や構造への個人への埋めこまれ具合によって説明できる部分もあるだろうし、数理グループが行っているように社会心理学的な認知メカニズムによって説明できる部分もあるだろう。
以上で「なぜ社会学の階層研究はややこしいのか」についての説明は終わりだが、個人的には、階層研究の立場は社会学が経済学や公共哲学などの他分野と接する機会でもあり、またその独自性を見出しやすいところでもあると思う。学術ジャーナルから得られる社会学の研究成果をいくつか読めば、社会学がこういった隣接分野を「横断する(いいところどりをする)」というコメントが勘違いであることにすぐに気づくことができる。
たとえば社会学は倫理学ではなく、人々の倫理観(の変化と多様性)を研究する。望ましい配分原理ではなく、人々が望ましい配分原理についてどう考えているか(あるいはその語られ方)を研究する。こういう意味では、社会学は公共哲学や倫理学から知識を拝借するのではなく、そういった学問に基礎的な知識を提供する役割を持っているのだと言えるだろう。したがって社会学の研究成果からすぐさま政策的含意を引き出せないことは、それ自体は仕方がない部分もあるのだ。