昨今なにやらいじめ問題が盛りあがってるせいか、ときおり以下のような発言を見掛ける。
ブログの炎上に関して、炎上する記事を書いた側がいけないと思う人は、いじめられる側がいけないと思う人と大差ない。なぜなら、炎上というネット上のいじめを容認し、責任をいじめられる側に押し付けているのだから。
Twitter / hosotaka: ブログの炎上に関...
特に被害者と加害者が存在する事案については、被害者側の責任について物議をかもすことがある。そういった議論のなかでは、こういう見解はわりと普通に見られる。
けどこれは間違ってる。たとえ犯罪であろうともそれを実行した加害者に、一方的に責任を押しつけてるだけだからだ。
感情としては理解できるが、まず間違いなく通らないし、通らないということは意味をなさない意見だ。こういう類の意見は政治的な意味はあるかもしれないが、まじめに議論するようなものではない。
責任というのは比率でしか表せない。例外的に10:0の比率になることもあるけども、だいたいは5:5とか7:3とかになる。この比率はおおむね政治力で決まるので、上述のような政治的な意見もまるきり意味をなさないということもない。が、そのような意見を押しつけて来る人は、政治がしたいだけかそれに無自覚な大馬鹿者なので相手にするだけムダである。
「じゃあおまえはいじめられる側にも責任はあるというのか?」
あると言ってしまおう。そんな陰湿なところにわざわざ行く奴が悪いのである。学校? 義務教育? 基本的人権も守られないような狭い教室になんの意味がある? そんなところに通わせてる親が児童虐待の主犯なんじゃないですか?
学校は楽しいところだなんて言えるのは、学校で楽しい思いをしてきた人間だけだよ。スクールカーストなんて言葉がある時点で学校は楽しいところではない。ただの格差と差別の場だ。
同世代の子供たちと交流して学ぶことがある? それは学べた人間だけが言えるせりふです。学べなかった人が悪いとでもいうの? 学べる場だと言い切れるの?
学校は学校にマッチした資質をもった人間だけがいけばいい。万人が行くべき場所ではない。
そしていまや学業は家からでなくてもインターネットで学べるようになりつつある。英語圏ならカーンアカデミーがある。
人との交流もネットで学べる。ネットは人と人が出会う場だからだ。わざわざ学校なんかで学ぶ必要は無い。今後は教育もどんどんオンライン化していくだろうし、そこで学士や修士を取るのも非現実的とはとても言えない状況がそろっている。
苦しい思いをする必要なんて無い。どうせ苦しむなら、成長のために苦しめばいい。ただただ我慢することは成長になんて繋がらない。自分がすり減り、ねじまがっていくだけだ。
大津や北本のいじめ事件については心の傷む話であるし、加害者が充分な罰を受けることを真剣に望むものではある。しかし、いじめっ子やいじめられっ子を生み出してる学校という状況についてももっと批判すべきだ。本当の加害者は学校そのもの、ひいてはその制度自体なんじゃないですか?
そしてそれは日本という国を問いなおす作業にもなるであろう。