3カ月半にもおよぶピースボートの船旅も、3/25の横浜寄港で無事、終わった。あこがれのパタゴニアにも南極にも、ガラパゴス、マチュピチュ、イグアスの滝にも行って来た。
この長旅の中、私はさまざまな教訓を得た。改めて、それを振り返ってみたい。まずは、私が船内で生命の危機にも瀕する鬱状態に陥った話からはじめよう。
人間は孤独に生まれ孤独に死んでゆくのだ
ピースボートというと、若者向けの地球一周の船として語られる。本来の趣旨はそうだったのだろうが、今や実態は全く異なる。1000人もの乗客は、80%が60歳以上の老人達。彼らはこの船旅の最低限の費用、100万円を支払う余裕がある、多少の差はあれ人生の成功者達だった。一方、若者は100人足らずしかいなかった。
私は船上で、老人達の醜さ、傲慢さばかり見る羽目になった。私の10年後、20年後を間近に見ているようだった。「こんなはずではない」と思ったが、遅すぎた。オプションのツアーに参加すると、それはさらに凝縮された。ガイドの旗の下、数100人の老人達が観光地をゾロゾロ歩き回り、レストランで食事をする。もちろん、その中に私もいた。絶句した。私は断固そこからの逃亡を計った。そうせざるを得なかった。
私は船内の個室から外に出なくなった。人間関係がわずらわしくなり、自分も老人でありながら、同じ老人の仕草一つ一つを嫌悪した。食事も一人でとり、船内のイベントや催事に参加せず、毎日発行される船内新聞も読まなくなった。船が日本を出港したのは2012年12月中旬だったが、暮れから正月にかけては、誰とも挨拶ひとつしなくなっていた。
当初、私はこの沈黙の世界を意外と面白がっていた。「孤独とは……」と、ひたすら自問自答したり、一日中、死んだおふくろや青春の日々を追憶していた。「人間は所詮、孤独のうちに生まれて孤独のうちに死んでゆくのだ。いつの日にか私も一人きりになる。今はそれに慣れる、訓練のための時間なのだ」と思った。
パソコンに溜めこんだ動画をランダムに見、夜になると睡眠剤を飲んで寝た。動画に飽きると、青空文庫(著作権切れの本を無料公開しているサイト)からダウンロードした名作を読んだ。島崎藤村、田山花袋、中原中也、太宰治、種田山頭火などの作品に涙した。
タヒチは世界有数の観光名所だ。物価は高いが景色はいまだ色褪せず美しかった
窓のない個室で膝小僧を抱えて眠る
しかし、だんだん自分の籠る個室に負のオーラが溜まるように感じられ、私は鬱状態に陥り始めた。窓のない個室で、外は雨が降っているのか晴れているのかも気にならなくなり、膝小僧を抱えて一人眠った。
さすがに「これはいけない」と思い、人が一番少ない時間に船内ジムで体を動かし、サウナへ。その時点で私は、自分の血圧が非常に上がっていると感じていた。個室に戻ると呼吸困難に陥った。数年前、自宅で同じ症状に陥り救急車で運ばれたことがある。そんなことを思い出しながら、誰も助けを呼べず、まんじりともせず夜明けを待った。
朝一番で船内クリニックに行き、血圧を測ると200を超えていた。持参した降圧剤を飲んでいたのにこの数字。医者もちょっと慌てていた。鬱症状から来る高血圧症だった。降圧剤を増量され、抗鬱剤を投与された。
「とにかく1日数人と1時間は話さなければ、この症状は治りません」と言われた。その頃、船はアフリカに向かっていた頃だった。まだ航海は2カ月以上も残っている。途中下船して日本に帰ろうか、と何度も考えた。
しかし、今回私がこの船に乗ったのは、ただただ南極に行きたい一心だった。パタゴニアも一度は行ってみたい。そのツアーの費用はもう払い込んであるし……。
私はそれから、毎日のように開催される映画上映会に参加し、少しずつであるが、社会復帰する様に心がけたのだった。(次号に続く)
3月25日、船は横浜に着いた。「平野さん、お迎えが来ています」「うそ〜っ」。一番おいらが困ることをしやがった星さん。許せん!(笑)