とりとめもない「愛国」的語句の羅列
この歌を作った人(野田洋次郎氏)は、日の丸に対する自分の心情を素直に歌詞にしたのだろうか。
そうだとしたら、彼ははためく日の丸を見るだけで意味もなく懐かしくなり、こみ上げる思いに血潮が高鳴るらしい。
そして、自分の身体に流れる「気高きこの御国の御霊」に誇りを感じながら、逆風にも高波にも立ち向かって突き進んで行くのだという。たとえそれで死ぬことになっても、永遠に咲き誇る《何か》を守るためならくじけはしないのだ、と。
書いていて背中が痒くなってくるようなストーリーだ。「御国」「御霊」「日出づる国」といったそれらしい語句を連ねて、なんとなくの「愛国」気分に酔っているだけではないか。
それにしても、人気ロックバンドがこんな歌を普通にリリースし、感激したファンから「国歌にしてほしい」などという声が上がるとは。戦後70年を経てとうとうここまで来たのか、と慨嘆せざるを得ない。
歴史の中の「日の丸」とのあまりに遠い距離
私がこの歌詞の中でとりわけひどいと思ったのが、「受け継がれし歴史を手に 恐れるものがあるだろうか」という一節だ。
「事実を知れば反日にならざるを得ない」という言葉があるが、この言葉のとおり、明治から敗戦までの日本の歴史は周辺諸国を蹂躙する外征・侵略の連続だった。そして、その侵略軍の行くところであればどこにでも、大日本帝国の象徴として常にひるがえっていたのが「日の丸」なのだ。
一例として、南京攻略戦の過程で目撃された「日の丸のある光景」をいくつか挙げてみよう。
上海から南京への進撃途上で[1]:
私たちが南翔を出てしばらく行くと、道の両側から三、四十メートルほどの距離をあけて、中国人の列がつづくようになった。彼らは、即席につくったのであろう、白い布に梅干し大の赤い日の丸をつけた旗を手に持っていた。歓迎を意味する日章旗のつもりなのだろうか、(略)
しかし、私が見るかぎり、彼らの目つきは明らかに敵意に燃えているようだった。(略)私はこの敵意にみちた民衆の表情のなかに、中国の人々の、この戦争には絶対に負けないぞ、という固い決意を感じとっていた。
その証拠に、私たちの進む道の両側の家は、一軒残らず日章旗をかかげていたが、二、三百メートル道からそれると、ことさらに、ここは中国だと誇っているかのように、軒なみ青天白日旗(当時の中国の国旗)をかかげていた。
同じく進撃途上で[2]:
南京までの途中、通過する部落は、そのほとんどの家々が破壊され、焼き払われ、道路には敵兵の死体だけでなく、民間人の死体も数えきれないほどころがっていた。
おそらく華中地方の風習であろう、道路には病気、老衰等で死んだ人も、木箱に入れて並べてあった。
第一線部隊は、それら木箱の死体に対して、ひっくり返したり、焼いたり、死体を坐らせて日の丸の旗を持たせたり、タバコを口にくわえさせたりしていた。
途中にころがる無数の死体の中でも、とくに婦女子の死体には、下腹部に丸太棒をつき刺してあり、目をそむけたくなるような光景であった。
南京陥落時[3]:
(略)南京では一番先に堕ちたのが和平門ですよ。その和平門から最初に入城したのは私らですよ!日の丸の旗を振って入りましたんや。それを知らずに門の外から千人位の支那兵が軍旗を持って四列で入城してきました。この支那兵を捕まえましたんや。それで捕虜にしトラックに積んで下関まで連れて行って四列に並べて発砲し殺しましたんや。
(略)
南京で五人の首を切りました。ハエを殺すのと同じ感覚ですよ。首の前の皮を残して切るのがコツですわ。あぐらをかかせ腕を組ませてるから首を切ったとき前屈みに倒れるんですわ。(略)家を焼いて残った柱に中国人を縛って、部下に銃剣で突かせて殺させたこともありますよ。(略)
陥落後の近郊農村で[4]:
冬月の14日(新暦の12月16日)、日本軍が来た時に、私の叔父の陳智錫らが日本兵を太陽旗(日の丸)をもって歓迎すれば殺されないといったので、村の男子はそのとおりに日本国旗をもって日本軍を迎えたところ、かえって日本兵に殺害されてしまうことになったのです。私の次兄の陳光東もそのとき村民と一緒に殺害されてしまいました。
村の若者が集団で殺害されたその日の夜、日本軍が村に宿営したとき、村の女性二◯数人が村の一軒の小屋に監禁されました。女性はみな日本兵に強姦されるのを怖れて、あるゆる方法で自分を汚なく、醜く見えるようにしていました。顔に鍋のスミを塗ったり、泥を塗ったりして、醜い顔にしていたのですが、何人かは日本兵に連れだされて強姦されました。
日本の近現代史を少しでもまともに学んでいれば、こんな歌詞は到底書けなかっただろう。
日本人はなぜ自国の近現代史を知らないのか
人気バンドがそんな侵略の旗を讃えながら、よりによって「受け継がれし歴史を手に 恐れるものがあるだろうか」などと歌い、これを聞いたファンが素直に感激・陶酔する。教育課程でナチス時代の犯罪行為を徹底的に学習するドイツとは比べるのも恥ずかしいが、きちんとした歴史教育が行われていれば、少なくともこんなことにはならなかったはずだ。
なぜ日本人はこれほどまでに自国の近現代史に無知で鈍感なのか。その主要な原因の一つに、戦争政策を推進した張本人である旧内務官僚や特高官僚が戦後の教育行政を牛耳ってきたことがある。
例えば旧内務官僚の大達茂雄。大達はシンガポール史上の暗黒時代と言われる日本軍占領期にその市長兼陸軍行政長官を勤めていた人物だ。その後の東京都長官時代には、必要もないのに戦意高揚のために動物園の猛獣たちをあえて殺させるという蛮行も行っている。
その大達は、敗戦後A級戦犯容疑者とされたものの不起訴となり、占領が終わると早々に復活して、1953年には第5次吉田内閣の文部大臣となった。そして大達文相は就任早々、教育などとは何の関係もない(というより有害無益でしかない)二人の特高官僚を文部事務次官と初等中等局長という要職に起用している。
こうした旧内務官僚や特高官僚が教育行政の中枢を占めればどうなるか。当然、自分たち自身がやったことも含め、大日本帝国の悪行を隠蔽・正当化するために全力で教育内容を歪めていくことになる。実際彼らは民主的内容の教材を攻撃し、教員の思想調査や恫喝を行い、教育の民主性を担保していた教育委員会の公選制を廃止するなど、あらゆる手口を駆使して教育の反動化を推進していった。
こうした制度改悪や教科書検定を通して、歴代自民党政権の下、学校では近現代史をほとんど教えず、たとえ自発的に勉強しようとしても教科書には肝心なことが何も書かれていないという愚民化政策が推進されてきた。
その結果、「何の思想的な意味も、右も左もなく、この国のことを歌いたい」と思っているだけの人が、こんな歌を作ってしまう。RADWIMPSの「HINOMARU」は、この国における歴史教育の失敗の象徴と言っていいだろう。
[1] 三好捷三 『上海敵前上陸』 図書出版社 1979年 P.193
[2] 創価学会青年部編 『揚子江が哭いている』 第三文明社 1979年 P.93
[3] 松岡環 『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて』 社会評論社 2002年 P.119
[4] 笠原十九司 『体験者27人が語る南京事件』 高文研 2006年 P.107
【関連記事】