ゼロの奇妙な使い魔 まとめ
3 認識の境界線 後編
夜も更けて、村の灯火が落ちていく。
吸血鬼の存在を警戒して村人達は遅くまで起きているが、赤と青の二つの月が頭上高く上る時間になると、流石に眠気に負けて床に就いていた。
幸いにも、今日は派遣された二人の騎士が見回りを行う。犠牲者が出るとしたら、村人ではなく、吸血鬼にとって邪魔な騎士の方だろう。
僅かな安心感に包まれた村の様相を村長の家の前で眺め見たホル・ホースは、口元の寂しさを夕食の残りである硬いベーコンを噛んで誤魔化していた。
シャルロットは今は寝床の中。腕時計の短針が三周する度に交代する予定だ。
人気のない村は寂しく、風の音が嫌に大きく聞こえる。
空に浮かぶ月を見つめて、ホル・ホースが口の中のベーコンを飲み込むと、長老の家の二階から小さな物音が響いた。
ゆっくりと視線を向けると、内側からしか開けることの出来ない二重窓を開いて顔を出すエルザの姿があった。
「子供は寝る時間だぜ。大人しくベッドに入ってな」
帽子に手をかけて声をかけるホル・ホースに、エルザは小さく笑って手招きをした。
時計の短針は、まだ一周もしていない。
時間はあるか、と考えて、ホル・ホースは家の外壁をよじ登ってエルザの部屋の窓に手をかけた。
「こんばんは、お兄ちゃん」
窓の縁にかけられた手を取って、エルザが引っ張る。
子供の力では、一般的な大人より少し大きな体格であるホル・ホースの体は、普通に考えれば持ち上がりはしない。
しかし、妙に強い力で引っ張り上げられたホル・ホースは、窓から部屋の中に引きずり込まれると、驚いている間も無く、その背後で窓が閉められた音を聞いた。
やれやれと、帽子を深く被りなおす。
「嬢ちゃんが吸血鬼か」
その言葉にエルザはベッドに腰掛けて、無邪気な笑みを浮かべた。
「大体、予想はついてたんじゃないかしら?」
まあな、と答えて、ホル・ホースは立ち上がる。
部屋の中は殺風景だが、ところどころにヌイグルミが置かれている。女の子の部屋といわれれば、なんとなく納得できなくは無かった。
部屋の中に薄く漂う血の匂いが無ければ、だ。
「まったく。何でオレを狙うかねえ」
背中が徐々に汗で湿っぽくなる。
吸血鬼と聞くだけで、まだ前の雇い主に対する恐怖が蘇ってくるのだ。
「ん、なんでだろ。あの女の子よりも、お兄ちゃんのほうが弱そうだったからかな」
口元に人差し指を当てて柔らかい声を出す。
声を聞いているだけなら子供との会話だが、感じる気配は全身が緊張するような凶悪なものだった。
やはり、吸血鬼はヤバイ。
ホル・ホースの頭の中をその一言がぐるぐると駆け回っていた。
「マゼンダってお婆さんに生け贄になってもらう作戦は台無しになっちゃったけど。屍人鬼はまだ生きてる。わたしね、もう少しだけ、この村にお世話になるつもりなの」
エルザがなんでもないことのように言った。
「そんなことをオレに教えてどうするんだ。見逃せってか?」
少女が首を振って、ホル・ホースの言葉を否定した。
「あなた達を殺すのは簡単。でも、ちょっと好奇心があってね。メイジの屍人鬼ってのも作ってみたい気がして」
ホル・ホースの全身を嘗め回すように見るエルザに、冷や汗が流れる。
屍人鬼の作り方は血を吸うだけだが、一度屍人鬼になれば死んだも同然。人間に戻すことは不可能だ。
いや、死んだほうがマシかも知れない。吸血鬼の奴隷として働くよりは。
「全力で辞退させてもらうぜ。前のヤツで我慢してくれや」
エルザが立ち上がって近づいてくるのに合わせて、ホル・ホースは後退する。
狭い部屋の中に逃げ場は多くは無い。
窓が一つに、扉が一つ。だが、窓は鍵がかけられているし、扉はエルザの後ろにあった。
「お兄ちゃんも言ってたでしょ。好きにすればいいって。わたしも、お兄ちゃんを屍人鬼にしたいからするの。こういうのって自由意志って言うんだっけ」
壁際に追い詰められたホル・ホースの前に、小さな体のエルザが立つ。
目の中には罪悪感も悪意も無い。
本当に、好奇心だけで行動しているらしい。
「抵抗しちゃだめだよ。痛くなるから」
エルザの両手がホル・ホースの体に伸びる。
最初は首に向けられたが、それがゆっくりと腰に下りていく。
「悪さされたら困るから、これは没収ね」
ベルトに挟まれた杖を手に取ったエルザが、サディスティックな笑みを浮かべて、それをホル・ホースの首に突きつけた。
ヒヒと、ホル・ホースが笑う。
「……え?」
抜き射ちの要領で腰の後ろに回された手が瞬間的に動き、エルザの首筋に銀色に輝く刃を這わせた。
「大逆転ってヤツか?手から意識を外すなんて、自殺行為だぜ。ついでに言えば、オレはメイジじゃねえ。ただの傭兵だよ」
エルザの肌に押し付けられた大降りのナイフを視線だけで確認して、少女が憎々しげに表情を歪めた。
「謀ったの?」
「いいや。嬢ちゃんが勝手に勘違いしたのさ。杖を持っていればそいつはメイジだ、なんて考えるのは悪い癖だぜえ。警戒のし過ぎだ」
囮に使うつもりで用意していたのは事実だ。
メイジという存在に強い印象を持っているハルケギニアの住人だからこそ、自分を打倒できるのはメイジだけだと考えていた吸血鬼だからこそ、必要以上に警戒する。
そう思っての準備だが、ここまで上手く行くとはホル・ホース自身も思っていなかった。
起死回生のチャンスを生む最高の策に変化したのは、ほとんど奇跡なのだ。
完全に立場を逆転させられたエルザは、押し付けられるナイフから逃れるように、壁際から少しずつベッドに向かい、足を戻していく。
踵が床の小さな出っ張りに引っかかり、少女の体がシーツの上に倒れこんでも、ナイフは正確に喉に突きつけられていた。
「ああ、そうだ。屍人鬼を使おうなんて思わないほうがいいぜ。部屋の中に突入してくる前に嬢ちゃんの首がパックリと口を開くことになるからな」
エルザは僅かに首を動かして肯定する。
抵抗する意思はまだ残っているようだが、打つ手が無いことは少女が一番良く分かっているだろう。
反撃するには体の大きさが足りないのだ。
適度に伸びたホル・ホースの腕を掴むことは出来ても、顔には届かない。足も、精一杯に伸ばしてやっと体にぶつけられるかどうかと言った所。それでは、蹴りの威力は半分以下に落ちる。
ぎしりと鳴るエルザの口から、はっきりと上顎と下顎に二つずつ並ぶ異様に長い犬歯が覗いている。
「……どうしたの。殺さないのかしら?」
微動だにしないナイフに意識を向けて、エルザが口を開いた。
吸血鬼は人間に比べて遥かに長生きだ。外見の年齢は当てにならない。
こう見えても、エルザは三十年以上の年月を生きている。ホル・ホースよりもずっと年上なのだ。
それにも係わらず、子供の姿をしているからと手を下せないのなら、ホル・ホースの命はすぐにでも、この小さな手に奪われることになるだろう。
だが、目には確かに殺気が宿り、不用意な行動は即座に死に繋がることをエルザに確信させている。
未だに生きているのが不思議なくらいだった。
「なに、本当にどうしたの?もう少し手に力を篭めるだけで、わたしを殺せるのよ?躊躇する理由なんて無いと思うんだけど」
さっさと殺せと言っているように聞こえる発言だが、エルザは殺される気などまったく無かった。
少しでもナイフが首から離れれば、すぐにホル・ホースの懐から抜け出して魔法の眠りに誘ってやろうと画策している。
メイジではないホル・ホースに、それを防ぐ手立ては無いはずだ。
そのままナイフを押し込まれたら終わりだが、そこは運次第。全ては賭けだ。
心臓の音とお互いの呼吸音だけが鼓膜を震わせるこの部屋で、二人は目を合わせて指一本動かす気配を見せなかった。
ぽたり、とエルザの頬に滴が落ちたのは、それから一分も経った時だ。
「な、なんでそんなに汗かいてるのよ?」
エルザの言葉の通り、ホル・ホースの顔にはびっしりと汗の滴が浮かんでいた。
それはもう滝のように流れ出していて、いままで落ちてこなかったのが不自然に感じるくらいの量だ。
歯が合わさらずにカチカチと音を立てる口を動かしたホル・ホースが、情けない表情でエルザに尋ねた。
「首切っても、生きてたりしないよな?」
「……はあ?」
どこの化け物よ。と言おうとして、エルザはホル・ホースの泣きそうな顔に言葉を飲み込んだ。
本気で聞いているらしい。
「切られてすぐに治療すれば、わかんないけど。普通は死ぬわよ。吸血鬼と言っても、生き物なんだから。喉笛切られて生きていられるほど化け物染みてはいないわ」
その言葉を聞いて、ホル・ホースがホッと息を吐いた。
顔を覆っていた汗はすぐに引っ込み、口が横に引き締められる。
肩がピクリと動いたのを見て、エルザは目を閉じた。
ここで終わり、か。
少しの沈黙の後、ホル・ホースの握るナイフが煌めいて、小さな命を刈り取った。
部屋の中から呼吸音が消えて、静寂が満たす。
ベッドの上に眠るように目を閉じた少女の顔には、何の表情も映してはいなかった。
「……ぶはっ!」
呼吸を収めていたために溜まっていた肺の空気を吐き出して、ホル・ホースがベッドの横に腰を落とした。
荒い息を整えながら次々と流れ出てくる汗を腕で拭って、ジロリとベッドの上に視線を投げかける。
「ああ、クソ!出来るかバカ野郎!オレはガキだろうがババアだろうが、女には手を上げねえ主義なんだ!女を殺すときはベッドの上だとは前から思ってるが、これじゃあ意味が違うぜ!」
帽子を脱ぎ捨ててベッドに背中を向けたホル・ホースは、壁に突き立ったナイフを抜いて先端に刺さっているものを振り落とした。
湿った音を立てて、ゴキブリの死骸が床に転がる。
「……変な男ね」
体を起こしたエルザが顎に手を当てて苦笑した。
そこに居るのは5才の少女ではない。それなりの時間を生きた大人の女だ。
「今殺さないと、村の犠牲者が増えるばかりよ。それでもいいの?」
少女の声で艶のある音色を響かせたエルザは、まだ村の住人を獲物として殺すことを止めるつもりは無いようだ。
エルザのやっていることは、吸血鬼という種族が行う、普通の食事に過ぎない。
止めろと言うことは、死ねと言うのと同義だ。止められるはずが無い。
「妥協は出来ねえのか?なにも、死ぬほど血を吸う必要はねえはずだろ」
二ヶ月の間に、エルザが襲った人間の数は10人。8の曜日と4の週からなるハルケギニアの一ヶ月から計算すると、およそ6日に1人殺したことになる。
人間が死なない程度の血を毎日誰かから提供されれば、なんとかならないことも無いはずだ。1人で無理なら、複数の人間から血を分けてもらえば良い。
「それって、人間と馴れ合えって言ってるのかしら。だとしたらご免よ。わたしの両親がメイジに殺されたのは事実だもの。人間は敵よ」
あっさりと拒否を示したエルザに、やっぱりダメかと肩を落とす。
「それよりもあなた、わたしのものにならない?腕は立つし、頭も良いし、性格も面白いわ。正直言って、気に入っちゃった。どう?屍人鬼になれば寿命なんて関係なく、わたしの命が尽きるまでずっと生きていられるわよ。それこそ、何百年もね」
エルザがベッドを降りて背中を向けるホル・ホースに抱きついた。
両腕が腰に回されて、その指がベルトにかかる。
「なんなら、わたしの体を好きにするってのもOKよ。まあ、こんな体じゃ欲情は出来ないでしょうけど、暫くの辛抱よ。いざとなったら、裏技もあるしね」
手がズボンの上からホル・ホースの体を艶かしく触れて、夜の空気に冷えた背中が息で暖められた。
「お、おいおい、冗談は……」
金属音が鳴り、木が軋む音を立てる。
乾いた音が床に当たって響いた。
錆びた音を立てて扉が開く。
ホル・ホースの視線の先に、青い髪の少女の姿が映った。
「あ」
「……あら?」
ホル・ホースとエルザの声が重なり、扉を開けて部屋の中を覗き込んで固まっている少女と視線が絡み合う。
ニコニコと笑顔を浮かべて手を振るエルザに視線を向けて、続けてホル・ホースに目を合わせた。
部屋の空気が急速に冷えてくるのを感じたホル・ホースは、腰に抱きついているエルザの腕を取って引き剥がすと、引き攣った笑みを浮かべてソロソロと窓際に足を向けた。
なにやら良く分からない状況だが、なにかがマズイ。
「しゃ、シャルロットの嬢ちゃん?勘違いするんじゃねえぞ?あれだ、吸血鬼だ。エルザがそうだったんだよ。な、これは不可抗力とかそんなので、オレは別に夜這いとかしてるわけじゃあ……」
「いやん。ホル・ホースお兄ちゃんったら、ダ・イ・タ・ン!」
全身から汗を噴き出して必死に首を振るホル・ホースに、調子に乗って両手を頬に当てたエルザが幼い体でしなを作った。
シャルロットの顔に深い影が落ちる。
「て、テメエ!変なこと言うんじゃねえ!」
「……わたしをベッドに押し倒したくせに」
目的はピンク色ではないが、紛れもない事実だった。
「な、て、てめええ……!」
反論しようの無いエルザの物言いに、ホル・ホースが拳を握って全身を振るわせた。
しかし、それよりも早く、床に転がった杖を拾い上げたシャルロットが凍りついた目でホル・ホースを射抜く。
短い詠唱の後、部屋に魔力が満ちて異様な静けさが包み込んだ。
「……ペドフィリアは死んだほうがいい」
乾いた床を走り抜けてホル・ホースに飛びかかったシャルロットが杖を振り上げて呪文の詠唱を行う。
振り下ろされる杖。ホル・ホースがそれを横に避けたところで、詠唱が終わり、空中に数十もの氷の矢が浮かび上がる。
「ウィンディ・アイシクル」
冷たい風と氷の矢が同時にホルホースに襲い掛かった。
風を切る音に続いて、急速に冷やされた部屋の壁が悲鳴を上げる。
ツララのような形の矢は、ホル・ホースの体を直撃する直前で何かに砕かれ、空中に飛散した。
腰溜めに構えたホル・ホースの手には、不可視の何かが握られている。それが、氷を砕いたものの正体だろう。
だが、全ての矢が砕かれたわけではない。幾つかはホルホースの肌を裂いて血を流させている。
「ちょっと待て!オレは無実だ!話を聞け!!」
「犯罪者は皆そう言う」
回転するように踏み出したシャルロットは杖を槍のように振り回し、ホル・ホースの足元を重点的に狙っていく。体勢を崩したところで魔法の一撃を浴びせる作戦だ。
シャルロットの体が駒のように回って杖を振り続ける。
足元に連続して襲い掛かる杖をバックステップと足の長さを利用した動きで不恰好に回避すると、ホル・ホースは視線を天井に向けて跳躍した。
「逃がさない」
杖が振られる。魔法の詠唱もされていた。
「エア・ブレイク」
風が集まって強い衝撃を生み出し、空中で身動きの取れないホル・ホースを襲った。
「待てって言ってるだろうが!」
なぜか、ホル・ホースの体が空中で跳ね返り、シャルロットの懐に潜り込んでくる。
突き出した天井の張りを両腕で叩いて動きを変えたのだ。
振り切ってばかりの杖を無理矢理戻して、シャルロットの口が素早く動く。
短い詠唱で発動するドットスペルと呼ばれる種類の魔法。飛翔を司るフライの魔法だ。
シャルロットの体を捕まえようと伸ばされたホル・ホースの手を、何かに引っ張られるように後ろへ飛んで回避して、さらに詠唱を重ねる。
「エア・ハンマー」
いつしかホル・ホースの体を打ちつけた、風の魔法だ。
圧縮された空気の大槌が真っ直ぐに打ち出される。
それを床に潰れるようにして回避したホル・ホースが右手を前に出して片目を瞑った。
何かが握りこまれる。また、あの不思議な力だ。
魔法を使うには詠唱が間に合わないと判断したシャルロットは、横へと体を投げ出して部屋の中を駆ける。体を床に寝かせているホル・ホースはすぐには対処できない。
右手の動きはシャルロットを追いきれず、そのままの方向を向いている。
はずだった。
空気が弾けて、シャルロットの手の中にあった杖に強い衝撃が走る。
杖を持ち続けるには握力が足りない。
節くれ立った大きな杖が空中を回転して舞う。壁に当たって乾いた音を立てると、跳ね返った勢いのまま床に転がり、いつの間にか伸ばされたホル・ホースの手の中に納まる。
杖がなければメイジは魔法を失う。しかし、肉弾戦という手段は消えていない。
それを現す様に、シャルロットは立ち上がろうとするホル・ホース目掛けて膝を立てて飛び上がった。
しかし、ホル・ホースの右手が伸ばされて膝の先端を掴むと、勢いを利用して床に投げ飛ばした。
シャルロットの体が床を転がり、エルザの足元でようやく止まった。
背中を強く打ちつけたシャルロットは背筋を反らして、無理矢理肺を広げ、呼吸を再開させた。
体を起こして咳き込むシャルロットに、大きな杖をくるりと回転させたホル・ホースが声をかける。
「勘弁してくれよ。人の話は聞きましょうって、親に習わなかったか?」
首を横に振るシャルロットだが、視線が冷たいことに変わりはない。まだ、話を聞く気は無いようだ。
呼吸を正して立ち上がり、拳闘士のように拳を握る。
軽いステップと調子を確かめるように繰り出すジャブは、ある程度の経験を感じさせた。
頭に手を当てて帽子が無いことに気づいたホル・ホースは、シャルロットの足元に転がる自分のテンガロンハットに気が付いて、何事もなかったように歩き出す。
「なに考えてるかは知らねえけどよ、あんまり無理はするなよ。嬢ちゃん」
傍まで近づいてシャルロットの頭を撫でたホル・ホースは、体を屈めて帽子を拾った。
握られた拳が下がり、力が抜ける。
ホル・ホースが差し出した杖を素直に受け取り、シャルロットは力なく視線を床に向けて佇んだ。
「んで、エルザの嬢ちゃんはどうする?オレと違って、シャルロットの嬢ちゃんは吸血鬼と分かっている相手に容赦はしねえと思うぜ」
帽子に付いた誇りを払い落としながら尋ねるホル・ホースに、エルザは呆れたように表情を緩ませて両手を頭上に掲げた。
「メイジってのは遠くから魔法を使うやつばかりだと思ってたけど、あんた達は違うみたいね。今のを見て勝てる気が失せたわ」
大人びた幼児が肩を竦めて溜息を吐く。
帽子を被ったホル・ホースがヒヒと笑った。
吸血鬼事件は解決した。
昨日の騒動は、シャルロットがいつの間にか使用していたサイレントの魔法のお陰で村長には知られていない。
敗北を認めたエルザをシャルロットは殺さなかった。というより、殺せなかった。
よりによって、アレキサンドルが屍人鬼だったのだ。
年老いたマゼンダからアレキサンドルを奪えば、彼女は誰の世話も受けられずに、あの隙間風吹くあばら家で命を落とすことになる。多くの犠牲者を出した男の母を、あの激情家の村人達が受け入れるとは思えなかったのだ。
以後、屍人鬼を作らないという条件でエルザを逃がすという選択肢もあったが、それはエルザが拒否を示した。
屍人鬼の無い吸血鬼は、狩られるのを待つ雛鳥に過ぎないらしい。
暫く思い悩んだ結果、殺すわけにもいかず、逃がすことも出来ないエルザをホル・ホースは自分の相棒として雇い入れることを決めた。
実力は足りないが、先住魔法や相手の油断を誘える外見は強力な武器になる。
難色を示すシャルロットを宥め、普段の食事として動物の血を、少女を襲うことを我慢する代償にホル・ホースの血を月に一度提供することを条件にエルザを正式に雇い入れたあと、任務の後始末を始めた。
吸血鬼と屍人鬼は山の中に潜んでいたことにして、討伐したと言い張るのだ。
証拠となる吸血鬼や屍人鬼の死体がなくとも、実際に事件が起きなくなれば村人達は納得するだろう。犠牲者さえ出なければ問題はないのだから
アレキサンドルには彼自身が屍人鬼であることを伝えてある。老いることなく生き続ける理由を、いつか疑問に思うはずだからだ。
エルザが操らなければ、老いることがないだけの人間として生きることが出来る。それを人間と呼べるかどうかは分からないが、本人は泣きながらエルザを責めた後、渋々納得して家に戻った。
村長に吸血鬼退治の完了を報告し、ホル・ホースとシャルロットは村を出た。
エルザは、ザビエラ村で起きた吸血鬼事件の、最後の犠牲者として記録されている。
都合よくシャルロットの魔法で部屋が散らかったお陰で信憑性も出た。
今頃、埋めるものの無い墓が村長の手で作られていることだろう。
「何度も聞くけど。わたしを生かしておいて、本当に良かったの?」
布で全身を包み、太陽の光から体を隠したエルザがホル・ホースの体の下で尋ねた。
シルフィードの背中の上でタバサを先頭に、エルザとホル・ホースが座っている。
わざわざホル・ホースがエルザを抱き込むように抱えているのは、日光からエルザを守るための配慮だ。
「かまわねえよ。人間を食料にしたのだって、血を吸うのが吸血鬼の仕事だっただけの話だ。死んだ娘さんたちには悪いが、いまさらゴチャゴチャ言ってもはじまらねえ」
ホル・ホースの言葉に、まだ納得がいかないのか、エルザは視線をシャルロットの背中に向けて首を捻る。
「わたし、吸血鬼なんだけど。人間の敵よ?どうしてこんな考え方が出来るのか、理解できないわ」
本を読みふけるシャルロットは、エルザの呟きにも反応せずにページを捲っていた。
変な奴らだ。
エルザはシャルロットとホル・ホースをそう評価して、別の方向に首を捻る。
そんなエルザに、ホル・ホースはまだ明るい空を見上げて、手を太陽にかざした。
「ん~、そうだなあ。空に月が二つ浮かんでいるのは当たり前のことだろ?」
エルザが体を動かしてホル・ホースの顔を見上げる。
「当たり前過ぎる事ってのは、あんまり疑問に思わねえ。当たり前だからだ。でも、それが誰にだって当たり前かどうかはわからねえ。事実、俺にとって、月が二つあることは当たり前じゃなかった」
シャルロットが本を読むのを止めて、振り向いた。
エルザと同じようにホル・ホースの顔を見つめて、視線の先を追う。
「だから、聞くんだ。なんで空に月が二つあるんだ?ってな」
空には太陽が輝き、世界を明るく照らしている。
だが、なぜ太陽が世界を照らしているのか。それを知る者はハルケギニアにはいないのかもしれない。
「あんまりにも答えてくれねえからよ。そのうち疑問に思うんだ。自分が幻覚でも見てるんじゃねえかってな」
話の意図は掴めないが、なにか興味を惹かれる言葉にシャルロットもエルザも視線を外せない。
ふざけてばかりのホル・ホースが真面目に話しているからだろうと、自分を納得させて耳を傾ける。
「まあ、実際に月が二つあるから二つ見えるだけなんだが、常識だと思っていることに対していちいち関心を寄せるヤツは少ねえ。当然のことを当然だと捉えている限りはな」
そこで言葉を止めたホル・ホースに、エルザが更にもう一度、首を捻った。
「で、何が言いたいの?」
その言葉に、ホル・ホースは情けない表情を浮かべて帽子を深く被った。
「あー、よくわかんねえや」
力が抜けたエルザとシャルロットがシルフィードの背中から落ちそうになる。
手を伸ばして二人を支えたホル・ホースが、ヒヒといつもの笑みを見せてエルザの頭を布越しに撫で回した。
「深く考えるんじゃねえよ。理解できないってことは、嬢ちゃんの常識がオレの常識とは少し違っただけの話だ。大した問題じゃねえさ」
布の中で不満そうな表情を浮かべたエルザは、小さな溜息を吐いてホル・ホースの体にもたれかかる。
とにかく、変な奴らだということで納得しておこう。
思い悩むのもバカバカしくなって、そのまま目を閉じる。
体から力を抜いて、背中を叩く他人の心音を子守唄にしたエルザが寝息を立て始めたのはすぐのことだった。
元々夜型の吸血鬼が昼間に起きているのは堪えるのだろう。
「……こうしてると、ただのガキなんだがなあ」
布の隙間から覗くエルザの寝顔を見て、ホル・ホースが呟く。
記憶の中にあるスタンド使いの吸血鬼と比べると、その姿はあまりにも可愛らしい。
同じ吸血鬼でも、厳密に言えば別の存在の二人。しかし、その姿を重ねてしまうのは仕方のないことなのかもしれない。
最初に出会った吸血鬼の印象が強烈過ぎるのだ。
シャルロットもエルザの姿を見て少しだけ目を細める。
その心に思うものがなんなのかはホル・ホースには分からなかったが、少なくとも悪いものではないだろうとは感じ取れる。表情の少ない顔には、彼女本来の優しい一面が浮かんでいる気がしたのだ。
そうしている間に、視線が合う。
なぜか、暖かかった目が急激に温度を下げていた。
「……相棒の話はどうなったの?」
その一言が、ぐさりとホル・ホースの胸に突き刺さった。
「ああ?あ、あー、そういやそんな話もあったなあ」
視線を逸らしてワザとらしく口笛を吹いて、ホル・ホースは額に汗を浮かべた。
忘れたわけではない。ちょっと別のことで頭が一杯だっただけだ。
実のところ、初めからホル・ホースはシャルロットの申し出を受ける気は無かった。
身の上話には同情するし、ジョゼフ暗殺にも異議は無い。しかし、女子供を直接戦場に立たせるのには抵抗があるのだ。
子供と言えば、ボインゴという前例があるのだが、あれには精神的に腐った部分があるので例外ということにしてある。それでも、ボインゴ自身の能力の関係もあるが、直接戦わせるようなことはしなかった。
それに比べてシャルロットは純真すぎる。復讐を誓っている人間だが、逆恨みの類ではなく、両親を謀殺されたための敵討ちだ。
理由が正当すぎて、自分の相棒としては頼りないし、自分のやり方にもいずれ反発するときが来るだろう。
相棒には、卑怯上等。奇襲万歳。正義?なにそれ、美味しいの?って態度が欲しいのだ。
そういう部分がなければ、暗殺など出来はしない。
本当に黒い、腐った部分がシャルロットには無い。だから、相棒には選べない。
そんなことを素直に言ったら、この少女は手を血で染めてしまいかねない。そんなことをさせるのは、ホル・ホースにとっては本意ではないのだ。
良い子は良い子でいればいい。
それが、ホル・ホースの本音だった。
「あなたの実力は、昨日の時点で理解した。わたしは、あなたを雇いたいと思っている」
本を閉じたシャルロットが、真剣な目でホル・ホースを見つめていた。
昨日の暴走が意図的だったものかどうかはさておき、実力を測るのにはちょうど良い手合わせになったようだ。
お互い一撃も入れていないのだが、シャルロットはそれでも構わないらしい。
結果的だけを見ると、ホル・ホースに適当にあしらわれた感があるが。あの戦いの最中に一番心の中で悲鳴を上げていたのは、他でもないホル・ホースだ。
最初の突撃の時点で反応出来たのも奇跡なら、続く攻撃を的確に対処出来たのも奇跡。
崖っぷちギリギリで、とにかく相手の杖を奪おうと必死に動いた結果、たまたまシャルロットに勝ったに過ぎない。
最初から最後まで心臓がバクバクと暴れ回っていたのを悟られまいと、最後に無理をして格好をつけてみたのだが、それが功を成して、杖を失っても戦おうとするシャルロットを止める事ができた。
あのまま続けたら、多分、無様に床に転がっていたのはホル・ホースだっただろう。
シャルロットの攻撃を思い出して背筋に冷たいものを走らせたホル・ホースは、それを誤魔化すためにシャルロットの頭に手を置いて、エルザと同じように乱暴に撫で回した。
「悪いが、嬢ちゃんは不合格だ。でも、気落ちするんじゃねえぞ。ジョゼフ暗殺の依頼を断ったわけじゃねえ。嬢ちゃんが今より成長するか、言った報酬を用意できたら、また改めて依頼しな。首を長くして待ってるからよ」
乱れる髪を気にするでもなく、ホル・ホースにされるがままになっているシャルロットは、小さく頷いて本を開いた。
シルフィードが鳴き声を上げる。
雲の裂け目、遠い景色の向こうに、ガリアの首都リュティスの姿が見えた。
シャルロットの頭から手を放したホル・ホースは、風で乱れた帽子を被り直して、深く息を吐いた。
腕の中で眠る少女に関して、イザベラにどう言い訳するか。
今のところ、それだけが唯一の悩みだった。
なお、任務完了の報告に戻ったシャルロットとホル・ホースに連れられた少女が、挨拶代わりに長く尖った犬歯を見せてイザベラに悲鳴を上げさせたのは余談である。
付け加えて、宮殿中にホル・ホースのロリコン疑惑が噂として流れたのも、本編とは係わりの無い、まったく別の話だ。