日本語って美しい
学生時代は『万葉集』に入れこんでいた私が、王朝期の大作『源氏物語』にとりつかれたのには、ある動機があった。1960年代、当時ハーバード大にいた夫のもとに幼い娘を抱えて合流し、ボストンに住んだ頃、大学系のパーティーなどで「どこから来た?」と聞かれて「日本」と答えると、何人かが「オー、ゲンジ?!」と応じるのである。日本人でさえ戦前は、めったな人が触るものじゃない、などといわれていた『源氏物語』の名が、意外にも海外では日本文学の代表のように扱われていることを初めて知った。
戦時中は勤労動員され、大学の教室までも入り込んできた軍需工場で働かされ、空襲警報が出て避難したときだけ、『源氏物語』の古い注釈本を抱えていって半地下の薄明かりで少しずつ読み進むのが唯一の生きている証拠、喜びだった。いま戦争が終わり、敵国だったはずのアメリカから快く受け入れられている中で、日本人としてのアイデンティティーをしっかり見直そうと、帰国早々、私は短歌の創作を20年近くも中断して、『源氏物語』に没頭することになってしまった。
戦中にはまだ古典原本としての活字本がなく、戦後の昭和33年に山岸徳平先生注釈の岩波古典大系本が出はじめて、全5巻、これは山岸先生がほとんど独力で頭注や解説を書かれたと聞いたが、どっしりと重く、ようやく戦争が終わった、という、うれしくも画期的な存在であった。
その約20年後、52年から出はじめたのが、現在も愛用の、新潮日本古典集成本全8巻、終刊は60年だった。石田穣二、清水好子先生の注釈付きで、判型も四六判と軽く、頭注の他に、行間に色違いの渋い赤で「現代語訳」が、必要な箇所だけに記されている。持ち歩きは軽いし、私の講義を聴く人々にも好評だ。講義では一区切りずつ、全員で声を出して原文を読む。いくら千年前の文章といっても、当時と発音は異なっていようとも、皆らくらくと読み上げ、現代語との意味の異同さえ押さえておけば、内容も間違いなく伝わる。日本語って美しいなあ、と思う。衣服や食べ物、行事や建物、道具類から薫香の話、紙の話と、いくらでも話は広がるから、千年前のくらしが体感できる。現在の講座はすでに29年目に入って、7巻目の「東屋」の帖を終えるところ。
以前に一度、8年半で読了した講義のテキストは、後に『新訳源氏物語』全4巻(小学館)として世に出たが、4巻目に「宇治十帖」をむりに1冊に収めた感じがあって、私としては新しい「宇治十帖」を書き遺したいという切なる思いがある。いのちあれば、の話だが。
この「集成本」の校注者の一人、清水好子先生は京都の方なので、なおのこと『源氏物語』の、目に見えぬ風情をよくとらえた語訳をしておられるように思う。背表紙のぼろぼろになった集成本は私にとっての宝物である。(新潮社、3200〜3600円+税)
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新潮社の古典シリーズ「新潮日本古典集成」の第1回配本として昭和52年に『源氏物語1』が刊行。現在は価格を下げた新装版(1〜8巻、2200〜2600円+税)も出ている。
尾崎左永子
おざき・さえこ 昭和2年、東京生まれ。東京女子大学国語科卒。評論『源氏の恋文』で日本エッセイスト・クラブ賞。歌集に『さるびあ街』『夕霧峠』(迢空賞)など。歌誌『星座』主筆。