僕の新しい本「社長復活」目次、プロローグ、表紙を公開いたします。
【目次】
プロローグ 震災ー鬱からの脱却
第一章 社長失格ーその後
第二章 会社2.0ー新しい起業のカタチ
第三章 仲間ースゴい才能が集結した
第四章 挑戦
第五章 進化系ーネットの近未来像
エピローグ 自信
【プロローグ】
◎プロローグ 震災 ―― 鬱からの脱却
二〇一一年三月一一日は、今シーズン開幕のパーティーの日だった。
寒さがピークを過ぎて春が近づいてくると、お食事会の誘いがくる。冬眠から覚めて身体がムズムズしてくるのか、男も女も、どこかウキウキした表情で集まってくる。シーズンの幕開けは、景気づけの意味もあって、パーティーからスタートするのが恒例だ。
パーティーは、友達が行きつけのイタリアンレストランに三〇人くらい集まって、夜の一九時からはじまる予定だった。
だが、その日のぼくはどうしても気分が乗らなかった。わざわざ東京に出ていくのも面倒だし、今日はやめておこうかな――。
千葉県船橋市の実家で昼飯をすませたぼくは、しばらく迷ってから、午後二時半すぎに意を決して主催者の友達に電話をかけた。
「いや、実はね――」
ぼくが切り出すと、その友達も、
「いや、板さん、そうなんだよ。ぼくもこんな面倒な話を仕切らなきゃよかったと思っていて……」
と言い出す始末。
「ああ、そう。じゃ、悪いけどさ、おれ今日行かなくていいかな」
と言ったとたん、ガタガタガタガタ……という揺れが来た。
「ちょっと電話切るよ。でかい地震で物が落ちた」
世田谷にいた友達は「こっちは揺れてないよ」と言う。千葉と東京で離れているからタイムラグがあるのだ。一〇秒ほどして、「ああ、来た来た」と言う声が返ってきた。
「じゃ、いったん切るね」
そう言って電話を切ってから三日間、電話はつながらなかった――。
東日本大震災が発生したとき、大きな地震だとは思ったが、ここまでの大惨事を予想したわけではなかった。
独り身のぼくは実家に引き蘢っていたから、母親も一緒だし、犬もいた(父親はすでに亡くなっていた)。だから、身内と連絡がとれずにあわてたということもなかった。揺れは大きかったが物が落ちた程度で、家が傾いたとか、ライフラインが止まったという被害もなかった。
だが、テレビから流れてくる映像にぼくは釘付けになった。震災直後の数日間は、他の多くの人と同じように、ショックでほとんど何も手につかなかった。だが、この 三・一一の大震災によって、それまで眠っていたぼくの何かのスイッチが入った。
二〇一〇年の秋から二〇一一年の春にかけて、じつはぼくはかなり重い鬱だった。
鬱の兆候は、二〇〇九年頃から感じていた。実家に引き蘢って誰とも会わず、ひたすら世間と距離をおいていた。何もやる気が起きず、SNSでのやりとりも億劫で、アルコールの量も自然と増えた。
そんなぼくが立ち直ったのは、三・一一があったからだ。ただ、震災が起きていきなりドカンと切り替わったわけではない。変化は少しずつはじまった。止まっていた時計の針がふたたび動き出した。そして、その動きは日増しに大きくなっていった。
震災直後は、福島第一原発事故や放射能問題について、自分なりに調べたことをツイッターで情報発信していた。情報が錯綜し、多くの人が出所のあやしいデマや風評に踊らされていたからだ。
「放射線」と「放射性物質」と、それらを合わせた能力としての「放射能」は違うこと。福島原発から直接「放射能」が襲ってくるわけじゃないこと。不安に走りがちな議論を整理するようなツイートを発信していたら、フォロワーがどんどん増えていった。
震災から一〇日後には、知り合いの女の子が、
「せっかくだから、みんなで集まってチャリティーパーティーでもやりましょう」
と声をかけてくれた。そこで、ぼくはその日のうちに会場を手配して、四月三日にチャリティーバーベキューをお台場のホテル日航東京で開催することを決定、ツイッターで募集を開始した。
一〇〇人規模のイベントだったが、枠はすぐに埋まった。みんな何かしたくてウズウズしていたのだ。
チャリティーが目的なので、「自分たちが飲み食いした金額以上を寄付しよう!」ということで、飲食費とは別に、それと同額以上の義捐金を参加者から募った。BBQ当日に集めたお金は日本赤十字を通じて、被災地へ送られた。イベントは成功した。
だが、チャリティーBBQを開催したり、ツイッターで情報発信したりしているだけでは満足できなかった。ぼくにはまだできることがあるはずだった。それが見えてくるには一カ月近くの時間が必要だった。
変化はジワジワやってきた。話はイベントの数日前にさかのぼる。
三月末、歌手の杉良太郎がトラックを何台も連ねて大量の支援物資を被災地に届け、数千食分の炊き出しを行ったというニュースが流れた。売名行為ではないかと聞いたアホな記者がいて、杉良太郎はこう答えたのだ。
「ああ、偽善で売名ですよ。偽善のために今まで数十億を自腹で使ってきたんです。私のことをそういうふうにおっしゃる方々もぜひ自腹で数十億出して名前を売ったらいいですよ」
それを見て、単純にカッコイイと思った。
売名行為であろうが、偽善的行為であろうが、お金はお金。現実にお金が足りないのだから、お金を送らない人より、送った人のほうがはるかに役に立つ。
町ごと流されて住めない土地がたくさんあって、何とかしなければいけない。高台に住宅を建てるにしろ、都会に引っ越しにしろ、お金がかかる。復興資金はいくらあっても困らない。
被災地にいらなくなった布団や古着を送る人がいるが、大量に送りつけられ、仕分けすらできずに、現地の倉庫がパンクしたという報道もあった。やはり、被災者が自分たちで使い途を選べる現金を送るのが一番いい。
追い打ちをかけたのが、ソフトバンクの孫正義社長の一〇〇億円寄付の話題だった。くしくもチャリティーBBQと同じ四月三日、孫さんは、東日本大震災の被災者への義捐金として、個人で一〇〇億円を寄付すると発表した。
ぼくも個人的に寄付したし、みなさんから寄付を募って送ったりもした。だが、孫さんの話はケタが違う。違いすぎてめまいがした。
そのときに思った。自分にはたしかに、食うには困らないだけの金はある。だが、一〇〇億円を寄付するだけの財力はない。ゴチャゴチャえらそうなことをつぶやいていても、最後はやっぱり金だ。金がなければ、まともに寄付すらできない――。
血が騒いだ。久しく忘れていた感覚だった。そうだ、ぼくは根っからのアントレプレナーなのだ。
世の中が大きく変化するとき、その周辺にはたくさんのビジネスチャンスが生まれる。インターネットがはじまった、スマートフォンが登場したというときこそ、ベンチャーの出番だ。
震災前と震災後では間違いなく世の中が大きく変わる。この大転換期を黙って見過ごす手はない。
「自分も何かしなければ」
「自分にもできることがあるはずだ」
ぼくは居ても立ってもいられなくなった。
金がすべてではないが、稼げる能力があるなら稼ぐべきだ。稼いで、税金を払って、寄付したい人は寄付する。稼ぐということは、社会に何らかの価値を提供した見返りだ。自分はそこから逃げていた。逃げていたから、いざというときに、孫さんにはできるのに、ぼくは何もできない。
悔しかった。何やねんと思った。どう考えても、被災地の人たちが感謝すべきなのは、一〇〇億円寄付した孫さんであって、わずかな金を送ったぼくではない。
ぼくの社長復活劇はここからはじまった――。
(第一章に続く)