「人権派」と言われ、弱い立場の人々に寄り添った活動をしてきた人が、セクハラやレイプをしていたことが発覚して、多くの人が「まさか、あの人がそんなことをするなんて」という反応をしているらしい。でも、私は特に驚かない。「ああ、父に似た人なのかな」と思うからだ。
私は今のところ、父が女性をレイプしたという話は聞いたことがないし、私自身が父から性的虐待を受けていたわけでもない。ただ、「反差別」で「人権派」な思想を持っていた父親が、一方で家族を抑圧し、娘の私に精神的に寄りかかって甘えていたことが、この構造と共通した部分があると思うのだ。
あと、最初に言っておくが、この手の人は右にも左にもいる。違いがあるとすれば、周囲の反応のほうだろう。
父は、自分に対する「NO」を受け付けない人だった。なので、私は、娘の好みなどわからない父親が買ってきたダサい服を、もらった時に「ありがとう」と言って受け取るだけでは済まず、父と一緒に出かける時にわざわざ着て、「これ気に入った!」と言って喜んであげなければならなかった。飲食店で父が食事を頼みすぎても、苦しくても全部食べてあげなければならかかった。その影響で、私は会食恐怖症の後遺症を抱えることになった。
これは、アルハラの構造と同じだ。アルハラする人というのは、自分が勧めた酒を断られた時に、「相手の体質上、これ以上飲めないのだ」ではなく、「自分が拒絶された」と受け取る。ハラスメント気質の人にとっては、部分的な拒否が、自分への全否定に変換されるのだ。
父のこういう性格に、他の家族メンバーは全員困らされていた。子供たちは、反抗期になっても、当然こんな父親だから、反抗心が湧き上がるのだが、実際にそれを父の前で出すことはせず、父の前では「いい子供」を演じていた。
父は「良い父親」という自己イメージ、そして、「子供との良好な関係」を望んでいたのだろう。その望みは、本来であれば、子供の気持ちをちゃんと聞くなど、地道に相手と向き合って構築するべきものだが、父は、自分の物語に子供達を無理矢理付き合わせた。子供たちが父の物語に沿わない態度を見せると、不機嫌さによる無言の威圧や、声量は大きくはないが低く鋭い声の調子という、微妙な感情の表出によって、子供達を押さえ込んだ。
おそらく、こういった父の「癖」は、父自身は全くの無自覚だっただろう。もし私たちが指摘しても、「自分はそんなことしていない」「嫌なら断ればいい」と否認し、認めなかっただろうと思う。
一方、父は「反差別」で「人権派」の思想の持ち主だった。在日コリアンや障害者や部落差別や発展途上国支援などの問題が、父の関心の対象だった。私がネトウヨにならなかったのは、父の教育があったからとも言える。このことは、父の中では、何も矛盾はなかっただろう。「弱者の側に立つ人」「子供を思う良い父親」というのが、父の自己イメージだったであろうから。
父の知り合いの人と会った時、「あなたのお父さん、優しい人でしょ?」と言われて、何とも言えない気分になったことがある。父は「その人に対しては」優しかったのだな、と思った。
両親からの依存の影響で精神を病み、心理カウンセリングを受けて、徐々に回復していく中で、父に本音をぶつけてみようとしたことがある。父と話す機会があった時に、これまで不満に感じていたことを言ってみようとした。
だが、父は相変わらず、不機嫌さによる威圧感と、低く鋭い声の調子によって、私の言葉を遮った。私が何か言おうとしても、その上から言葉を被せてきて、全く聞く耳を持たなかった。そして、沖縄の米軍基地問題と、グアム島の先住民族が、その歴史上、いかに支配を受けてきたかについて話し出した。
私は、この時ほど、父の「人権派」な内容の話を、虚しく聞いたことはなかった。「あー、この人には、何を言っても無駄なんだなぁ……」と、冷めた諦めの気持ちになった。
id:watapoco 自分の知る限りだけど(サンプル少ないけど)、典型的なこの世代の社会運動に関わる男性。問題は自分の外にある、という世界の認識の仕方なので、自分を振り返れないの(もしかしたらその能力そのものがない)。
冒頭に挙げた記事についていたブックマークコメント。これはまさに私の父だ。父が関心を持っていた問題は、父にとって「自分の外」にある問題であり、そういう問題に対しては、父は共感し、助けになりたいという思いが持ち上がったのだろう。そして、実際、そんな父に助けられた人もいたかもしれない。
だが、自分の内側にある問題、身近な女性と子供への抑圧については、父は全く自分を振り返ることができない人だった。
しかし、これは何も、父に限ったことではないのだと思う。支配・被支配の関係というものは、傍から見ればそれが明白であっても、自分がその関係の中にいる時は、被害者の立場の人ですら、その構造が理不尽な支配・被支配の関係なのだと理解しにくくなってしまう。
他人のことなら「それってレイプじゃん!」「毒親じゃん!逃げて!」と思えることでも、自分が受けた被害については「自分が悪かったのでは……」「この程度では虐待とは言えないんじゃ……」と思ってしまう。加害者なら尚更で、自分が加害しているという意識すらないし、ともすると自分のほうが被害者だと思っていたりする。
虐待被害者の話で、自分の親が虐待のニュースを見て「子供を虐待するなんて、信じられない!」と言っていたというのは、よく聞く話だ。
今回、7人の女性から性被害を告発された広河氏の振る舞いは、ネット上の記事を読む限り、書籍『部長、その恋愛はセクハラです!(牟田和恵・著)』に書かれているような、「女性部下からの尊敬を好意と勘違い」→「本来の目的を言わず、仕事にかこつけて誘う」→「同意を得ずにいきなり押し倒す」という、職場におけるレイプの典型例だった。
また、広河氏の「(女性たちは)僕に魅力を感じたり憧れたりしたのであって、僕は職を利用したつもりはない」*1という認識は、性暴力加害者によく見られる、「自分が望んでやったのではなく、相手が望んだからやってあげたのだ」という認知の歪みと共通している。
おそらく、広河氏は、言い訳ではなく本気でこう思っており、「人権派」で性暴力被害の取材もしている自分自身と、職場の女性に手を出した自分自身とは、彼の中では全く矛盾なく両立していたのだろう。
そして、ここからはあくまでも私の推測だが、「(女性たちは)僕に魅力を感じたり憧れたりした」という部分が、広河氏の望みだったのではないだろうか。つまり、「女性に求められる自分」という自己イメージを保つために、地道に女性との関係を築くという、本来やるべきことをするのではなく、不機嫌さと周囲への威圧によって、部下の女性たちを無理矢理自分の物語に付き合わせ、居心地のいい錯覚の世界を、自分の半径5mくらいに築いていたのではないだろうか。ちょうど、私の父がそうしていたように。
「相手が自分に魅力を感じたんだ」という、妙な自信があるわりには、性行為という本来の目的を明らかにして誘うのではなく、最初は「写真を教えてあげる」などと、仕事にかこつけて誘うのが、この手の人たちの特徴でもある。自信があるのなら、本来の目的を言って誘えばいいのだが、なぜか彼らはそうはしない。
理由として、ひとつには、本当は無意識下では、仕事の上での尊敬しかされていないとわかっていることが考えられる。もうひとつは、相手から「NO」と言われることが死ぬほど嫌い、というよりは、怖いのだと思う。相手からの部分的な拒否が、自分に対する全否定に変換されてしまう。「女性に求められる自分」という自己イメージが壊れることに、精神的に耐えられないのではないだろうか。だから、無意識のうちに、相手が「NO」と言えない状況に追い込む手段を取ってしまう。
『男が痴漢になる理由』の著者であり、性暴力治療プログラムに携わってきた斉藤章佳氏は、DVや性加害をする男性の根底にあるものは、「恐怖」だと語る。
斉藤:男性がもっとも向き合いたくない感情のひとつが“恐怖”なんです。
雨宮:恐怖ですか……?
斉藤:自分よりも立場が弱い存在から、攻撃されたり、排除されたり、自分の存在意義を否定されたりすることへの恐怖ですね。
攻撃的な人・性暴力を振るう人の根底には恐怖の亡霊が住み着いています。本来、この恐怖を認めることができれば楽なんですけど……。男性は“男らしさの教育”の中で、そういった訓練を受けてないんですね。男性の一番のウイークポイントは「自分の弱さを認められない」ってことではないかな、と思います。
私の経験上、この手の人は、自分より立場が弱いゆえに依存している相手から、直接「嫌だ」と言われても、まともに聞けないだろうと思う。彼らにとっては、弱者からの拒否は恐怖なのだ。こういう人からは距離を取るしかないし、もし言うとしたら、彼が依存対象としていない、第三者に言ってもらうしかない。
ちなみに、私の母親はというと、母自身も父の横暴さに困っていながら、私と父との関係を「仲がいい」と思い込んで、「あんたは、お母さんには、そうやって反抗するのに、お父さんが誘うと、嬉しそうについて行って……」などと言っていた。
父と母はある意味似た者同士というか、母もなかなかの毒親で、私に精神的に依存していた。母は、私が父にさせられていたようなご機嫌取りを、自分にもしてほしかったのだと思う。だが、母には私を威圧して黙らせる能力がなかった。その点については、母は父よりマシだったが、当時の母にとっては、そうではなかったようだ。
おそらく、職場でも、このような構造はあるのではないだろうか。横暴なセクハラ上司の生贄になっている若い女性のことを、周囲は「仲がいい」とか、「体を利用して上司に取り入ってるんだ」とまで思っていて、女性が孤立させられてしまうことが。ある種の男性は、「自分だって若い女に手を出したいのに」という嫉妬から。他の人は、荒ぶる神を鎮めておくために、彼女を生贄に差し出したという後ろめたさから。
性暴力被害者の女性にセカンドレイプする男性たちの中には、「お前はどうせ、俺にはやらせないんだろ。俺だって同じことがしたい」という思考回路の人がいるが、ある意味、私の母に似ているのかなと思う。
父を「優しい人」だと言った人の感覚を、私は否定するつもりはない。その人にとっては、確かに父は優しい人だったのだろう。一方で、私が父に感じていた抑圧も、否定されるいわれはない。そして、両者は矛盾しない。
「まさか、あの人が」と思う場合、あなたはたまたま、彼あるいは彼女の依存対象にならなかったというだけのことなのだ。
※私が父から受けた抑圧を、もう少し具体的に書いたブログ記事。