前書き
『絵画と写真で見る 世界海戦史:レパントの海戦からフォークランド紛争まで』(原書房)
中世から現代までの公海での著名な交戦の数々を、絵画、写真、地図で紹介します。船が単純な構造のものから次第に高度な戦争機械へと発展する過程を見ながら、高名な指揮官、戦術などとともに歴史の流れを変えた海戦をたどる 『絵画と写真で見る 世界海戦史』から「はじめに」を特別公開します。
多くの海戦のなかから重要な戦いを選びだすことは、やりがいはあるが難しい。さまざまな数字だけでは重要な戦いを定義することはできないし、1779年のフランバラ岬の海戦のように、小規模でも後世まで影響を与える出来事もある。1812年戦争は単艦同士の決戦が非常に効果的だったが、それとは対照的に大規模な艦隊の戦いが大混乱に陥ることもしばしばだった。すべての大戦に決定的な結果が出たわけでもない。たとえば、ユトランド沖海戦は、いまだに多くの歴史論争をまき起こしている。すべての海戦が純粋に海軍だけで戦われたわけでもない。1804年のプロ・オーラの海戦では、フランス海軍が商船の船団を相手に戦い、敗北した。そしてすべての戦いが公式に交戦中の敵が相手だったわけではない。たとえば帆船同士の最後の戦いとなった1827年のナヴァリノの大混戦や、1652年の第1次英蘭戦争に先立つグッドウィン・サンズの海戦がその例だ。1781年のチェサピーク湾の海戦や、第2次世界大戦中に太平洋で6か月間続いたガダルカナル島の戦いといった交戦は、広範囲にわたって影響をおよぼしたが、これは他の戦いではあり得ないことだ。戦闘にかんする良い情報には問題があり、戦勝国が歴史を書く場合はとくに疑ってかかる必要がある。戦いの記録を司令官が書けば、当然自分の決断を正当化しようとするだろう。ごく平凡な水兵や一般市民のような、あまり「重要ではない」個人の回顧録や目撃談は見過ごされがちだが、そういう記録のほうが実態を伝え得るのだ。問題はタイミングだ。人の記憶は当てにならないものなので、戦闘の数年後に書かれた記録は信頼できないかもしれない。18世紀までには新聞が活用されるようになり、偏見や誤報、検閲によって実情がかすむこともあるとは言え、当時の読者をぞくぞくさせる真に迫った記事を提供した。
商船を集めた急ごしらえの中世の船団から、やがて海軍が発達した。それが顕著だったのは17世紀だ。当時の二大商業国であるイギリスとオランダが、必要な支援と管理機能すべてを備えたプロの海軍をしだいに形成した時代である。プロの海軍はフランス革命からナポレオン戦争、そして第1次、第2次世界大戦にいたるまで、世界の覇権をめぐる闘争にずっと巻きこまれてきた。第1次世界大戦以前はドレッドノート級戦艦の建造で軍拡競争が繰り広げられ、トラファルガーの海戦のような決定的勝利が期待されたが、第1次大戦では海軍の戦いは効果が薄いと証明された。1919年からは空軍力の影響が大きくなり、第2次世界大戦では空母の重要性と価値が明らかになる一方で、潜水艦が海戦に新たな局面をもたらした。
こうした戦いの物語で輝きを放つのは、偉大なる指揮官たちだ。だが海で戦った無名の英雄たちも、男女を問わずやはり輝きを放っている。偉大な指揮官を比較することは難しい。ひとりひとりが、たとえば技術面ひとつとっても、多種多様で複雑なシナリオに対応しなければならなかったためだ。歴史学者ポール・ケネディは簡潔にこう述べている。「イギリスの英雄ネルソンなら150年前の旗艦上でもくつろいでいただろうが、同じくイギリスの海軍軍人ジェリコーとアメリカのニミッツは100年前の船上で途方に暮れていただろう」
[書き手]ヘレン・ドウ(歴史家)
エクセター大学で博士号を取得。同大海事史研究センター、王立歴史協会、王立芸術協会のフェロー。英国海事史委員会の副委員長兼理事を務める。英国政府の国家歴史船専門家評議会メンバー(HMSヴィクトリー、メアリー・ローズ号、カティ・サーク号、ウォリアー号など)。SSグレート・ブリテンの評議員、英国海事史委員会の副会長。著書多数。
帆船から空母の時代まで
数世紀にわたる多くの海戦を研究すると、新技術や戦略とともに大きな変化が訪れたことがわかる。だが、明確な統率力をはじめ、変わらずに残った要素も多い。中世初頭の艦隊は、軍隊を運ぶための商船の寄せ集めだったが、20世紀までに巨大で強力な航空母艦が世界的権力のシンボルとなった。ガレー船の破壊槌から始まった兵器類は、船首楼の弓兵、砲撃台、臼砲艦を経て、大型装甲艦や原子力潜水艦へと発展した。3本マストの帆船の登場によって機動性が向上し、鉄と蒸気の登場によって軍艦が気まぐれな風から解放されて海戦に大きな変革が起こった。一方、航空母艦から航空機が離陸するようになると、海軍力に対する新しい考え方が求められるようになった。多くの海戦のなかから重要な戦いを選びだすことは、やりがいはあるが難しい。さまざまな数字だけでは重要な戦いを定義することはできないし、1779年のフランバラ岬の海戦のように、小規模でも後世まで影響を与える出来事もある。1812年戦争は単艦同士の決戦が非常に効果的だったが、それとは対照的に大規模な艦隊の戦いが大混乱に陥ることもしばしばだった。すべての大戦に決定的な結果が出たわけでもない。たとえば、ユトランド沖海戦は、いまだに多くの歴史論争をまき起こしている。すべての海戦が純粋に海軍だけで戦われたわけでもない。1804年のプロ・オーラの海戦では、フランス海軍が商船の船団を相手に戦い、敗北した。そしてすべての戦いが公式に交戦中の敵が相手だったわけではない。たとえば帆船同士の最後の戦いとなった1827年のナヴァリノの大混戦や、1652年の第1次英蘭戦争に先立つグッドウィン・サンズの海戦がその例だ。1781年のチェサピーク湾の海戦や、第2次世界大戦中に太平洋で6か月間続いたガダルカナル島の戦いといった交戦は、広範囲にわたって影響をおよぼしたが、これは他の戦いではあり得ないことだ。戦闘にかんする良い情報には問題があり、戦勝国が歴史を書く場合はとくに疑ってかかる必要がある。戦いの記録を司令官が書けば、当然自分の決断を正当化しようとするだろう。ごく平凡な水兵や一般市民のような、あまり「重要ではない」個人の回顧録や目撃談は見過ごされがちだが、そういう記録のほうが実態を伝え得るのだ。問題はタイミングだ。人の記憶は当てにならないものなので、戦闘の数年後に書かれた記録は信頼できないかもしれない。18世紀までには新聞が活用されるようになり、偏見や誤報、検閲によって実情がかすむこともあるとは言え、当時の読者をぞくぞくさせる真に迫った記事を提供した。
商船を集めた急ごしらえの中世の船団から、やがて海軍が発達した。それが顕著だったのは17世紀だ。当時の二大商業国であるイギリスとオランダが、必要な支援と管理機能すべてを備えたプロの海軍をしだいに形成した時代である。プロの海軍はフランス革命からナポレオン戦争、そして第1次、第2次世界大戦にいたるまで、世界の覇権をめぐる闘争にずっと巻きこまれてきた。第1次世界大戦以前はドレッドノート級戦艦の建造で軍拡競争が繰り広げられ、トラファルガーの海戦のような決定的勝利が期待されたが、第1次大戦では海軍の戦いは効果が薄いと証明された。1919年からは空軍力の影響が大きくなり、第2次世界大戦では空母の重要性と価値が明らかになる一方で、潜水艦が海戦に新たな局面をもたらした。
こうした戦いの物語で輝きを放つのは、偉大なる指揮官たちだ。だが海で戦った無名の英雄たちも、男女を問わずやはり輝きを放っている。偉大な指揮官を比較することは難しい。ひとりひとりが、たとえば技術面ひとつとっても、多種多様で複雑なシナリオに対応しなければならなかったためだ。歴史学者ポール・ケネディは簡潔にこう述べている。「イギリスの英雄ネルソンなら150年前の旗艦上でもくつろいでいただろうが、同じくイギリスの海軍軍人ジェリコーとアメリカのニミッツは100年前の船上で途方に暮れていただろう」
[書き手]ヘレン・ドウ(歴史家)
エクセター大学で博士号を取得。同大海事史研究センター、王立歴史協会、王立芸術協会のフェロー。英国海事史委員会の副委員長兼理事を務める。英国政府の国家歴史船専門家評議会メンバー(HMSヴィクトリー、メアリー・ローズ号、カティ・サーク号、ウォリアー号など)。SSグレート・ブリテンの評議員、英国海事史委員会の副会長。著書多数。