「詩を読む」と言ったとき、どう読めばいいのだろう……と、言葉からイメージを想起させることに慣れていない人も多いかもしれない。でも、そういう人ほど面白く読めるようになってしまうのが詩であると思う。「詩」がほかの文章と異なっている点でわたしがいま一番気になっているのは、言葉が意味から剥がれているところである。
美術作品を見るとき、マチエールの妙に目を凝らしたり、モチーフと技法の組み合わせに驚いたり、背景となる文脈や、リサーチの視点、それらを作家がどう表現しているのか、といった多角的な要素から、かならずしも「言葉」で表し尽くせない強度を鑑賞体験から感じている。
詩を読むという場合も、一読しただけでわからなくとも何度か読み重ねることで、目の前にある文字が持つ「言葉の意味」が、もともと自分が持っていた感覚からポロポロと剥がれていくことがある。なかなかそうならないときは本を開いて声に出してみたり、朗読している声を聞いたり、他の詩篇にもある単語を拾い読みしてみたりする。今回は、字、声、かたち、音、言葉がつくるイメージ、言葉とのさまざまな出会い方ができる本を選んでみた。詩集を読んでみることは、わかりやすいハウツー本を読むよりも有意義な、整然とした立法者としての詩人の言葉に出会う機会になるだろう。
パーシー・ビッシュ・シェリー『シェリー詩集』(上田和夫訳、新潮文庫、1980)
おまえの兄弟の「夜」が来てさけんだ──
わたしに来てほしいのか と。
かすむ目の おまえのいとし子「眠り」は、白昼の蜂のようにささやいた──
あなたのそばにおりましょうか
わたしに来てほしいのですか と──わたしは答えた
いや おまえではない!
──『シェリー詩集』、126頁、「夜に」より
自由や平等が掲げられた革命の時代、たった30年を生きたロマン派の詩人・パーシー・ビッシュ・シェリー(1792〜1822、イギリス生まれ)の詩集を手に取ったのは、パーシーの妻であるメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』がきっかけだった。そもそもロマン派というのは、それまでの古典的な考え方から脱する、「個人」に重きをおいた表現だった。そのため、自由恋愛としての愛や、自然をみつめる個の視点が詩のなかで多用される。
読み始めると一見、愛を歌うくさいセリフのようにも読めるが、人間が人間に呼びかけるように、感覚や感情を自らの声に出す仕草は、当時の背景を想像すると時代が持っていた「自由」の考え方が想像できる。実際に、『シェリー詩集』でも個人に語りかけるような詩や、上記に引用した「夜」に寄せた詩など、だれかに対峙して読むということが大きな意味を持っていたように思う。
また、産業革命全盛の時代にこうした詩が書かれ、同時に『フランケンシュタイン』があったことは大変興味深く、そうした背景とともに詩を知っていくことも面白い。
谷川俊太郎『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』(青土社、1975)
きいた風なこと言うのには飽きちゃったよ
印刷機相手のおしゃべりも御免さ
幽霊でもいいから前に座っててほしいよ
いちいち返事されるのもうるさいけど
──『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』、16頁、「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」より
1972年5月に即興的に鉛筆書きし、6月26日に池袋パルコで思潮社が経営していた「ぱるこ・ぱろうる」で朗読したという同題の詩を中心に編まれた、この谷川俊太郎(1931〜2024、東京都生まれ)の詩集に入っている詩篇は、ほとんどが実在する人や作品に宛てて書かれている。
呼びかけるのではなく、手紙をしたためるように。しかし宛名があるにもかかわらず、書き手の目は手紙の相手ではなく読者に向いている。ガジェット好きである谷川さんは執筆する際もすぐにワープロやパソコンを取り入れていたことからも、書いた詩が「印刷機」という機械を通して、活字として世に流通していくことに、とくに敏感だったのではないだろうか。ここに書かれた詩は、印刷機に対してじゃなく、「きみ」に書かれているのだ。というのが、この詩集と同時に書かれたのが『定義』という詩集だったということもふまえて読んでみたい。
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