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  • 苦悩する君へ

    (picture/originalunknown)君の全生涯を心に思い浮かべて気持ちをかき乱すな。どんな苦労が、どれほどの苦労が待っていることだろう、と心の中で推測するな。それよりも一つ一つ現在起こってくる事柄に際して自己に問うてみよ。「このことのなにが耐え難く忍び難いのか」と。まったくそれを告白するのを君は恥じるだろう。つぎに思い起こすがよい。君の重荷となるのは未来でもなく、過去でもなく、つねに現在であることを。しかしこれもそれだけ切り離して考えてみれば小さなことになってしまう。またこれっぱかしのことに対抗することができないような場合には、自分の心を大いに責めてやれば結局なんでもないことになってしまうものである。-マルクス・アウレーリウス「自省録」より苦悩する君へ

  • 遠からず君はあらゆるものを忘れ、遠からずあらゆるものは君を忘れてしまうだろう。

    ニーチェは云った。「私を殺さないものは全て私を強くする」アウレーリウスの自省禄の一節にはこんな記述がある。苦痛について。「耐えられぬものは殺す。長く続くものは耐えられるものである」遠からず君はあらゆるものを忘れ、遠からずあらゆるものは君を忘れてしまうだろう。

  • 老年若生

    皮肉なもの。若き心を知るには老いる必要がある。老年若生

  • 運と実力。

    運は巡ってくる。と思いながらもそれだけではいかんようで、運ぶということも大事な気がする。よしあしのだいたいの輪郭は運命によって定まるとしてもだ。たとえば運というものがコップ一杯の器だとすれば、そこにはコップ一杯分しか運が入らないにしても、これに何を入れるかは自分の目利きにある。安物よりうまい酒を入れられるかどうかは、自分の腕にあるのだ。中に入れられる品物によって、そのコップ一杯の価値は定められる。容量は宿命的に定められているとしても、その内容の品質は自分の運ぶ力いかんによって上下左右されるような気がする。運と実力。

  • 芽明止蔵の話

    提灯が消えて座頭に手をひかれ漆黒の闇夜、按摩さんは目が見えないので私が送って行きましょう、と出てはみたものの、途中で提灯の火が消えてしまい反対に手を引かれて迷惑をかけた。こんなのもある、按摩さんが帰りに提灯を貸してくれという、宿の女将が目が見えないのに明かりがいるの?と聞くと、按摩さんは「へぇ、明かりを持っていないとおっちょこちょいの目明き(目の見える人)にぶつかられてかなわんのです」と。またこんなのもある、偉い横柄な按摩が灯をもって歩いていたら目明きにぶつかられた、こやつ何をけしからん、灯が目に入らぬか、と一括したものの、灯はとうに消えていた。これということではないけれど、妙(みょう)に明(めい)に影(えい)に残る。めあきとめくら、の話です。芽明止蔵の話

  • 花を見て

    「私が→花を、見る」「花が→私に、見える」どっちだ。この花の「この」に力点を置いているのか、この花の「花」にそれを置くかによって、本質が全く違った、あるいは正反対の、方向に展開する可能性も生まれる。どっちだ。草冠に化けると書いて「はな」。花を見て

  • 最善観

    私の身の上に起こる数々の事柄は、そのすべては偶然も必然であるとともに、この私という存在にとってそれは最善なはずだ。と観じればこそ私たちは、それに対してこれを嫌ったり拒んだり退けたりせず、素直に受け入れて、そこに隠されている神の意思を読み取らなければならない。ここで神とは、この大宇宙をその内容とするその根本的な統一の力のことであり、宇宙に内在している根本的な生命力のことを謂う。そしてそのような宇宙の根本的な統一力を、人格的に考えた時、これを神と呼ぶ。したがってそれはまた、自分に与えられた全運命を感謝して受け取って、天を恨まず人を咎めず、否、恨んだり咎めないばかりか、楽天知命、すなわち天命を信ずるが故に、天命を楽しむという境涯を指す。-参照/森信三「最善観」より私は思う。善では足らない、最善とおぼしめよ。と。最善観

  • 一隅を刻む

    山寺の鐘つく僧は見えねども四方(よも)の里人時を知るなり‐二宮尊徳翁どこのだれかは知らないけれど、誰もがみんなが知っている時間。一人暮らしの爺さんが限界集落で一人ひっそりと亡くなりました。あるじを失ってもおじいさんの古い時計だけは、時を刻んでいます。爺さんがいなくなって、残飯にあり付けなくなった鼠が時計に言いました。「馬鹿だなあ、誰も見る者はいないのに、何だって動いているんだえ」「人の見ていない時でも動いているから、いつ見られても役に立つのさ」と時計は答えました。「人の見ていない時だけか、又は人が見ているときだけに働いているものはどちらも泥棒だよ」鼠は恥ずかしくなってコソコソと逃げていきました。hommage/夢野久作一隅を刻む

  • 神の福音

    今日1月11日はえべっさんの残り福である。「商売繁盛笹もってこい」の音声に戎神社の境内は包まれる。えべっさんは恵比寿神という海の神様である。明日の大漁に掛けて商売繁盛をお願いする神様でもある。そう、明日への。明日といえば、西洋の神様の教え、マタイ福音書第6章34節にはこんな件がある。「さすれば、明日のために思い煩うことなかれ、明日は明日自ら、己のために思い煩わん、その日はその日の労苦にて足れり」つまり、明日のために心配するな。明日は、明日が自分で心配するであろう。1日の苦労は1日で足りる。私にとって大事な、「福音」である。神の福音

  • おくればせながら

    拝おくればせながら

  • 意味の違い

    「仕事の意味」と言うのは、「意味のある仕事」と言う言葉とは、別物である。と誰かが宣わっていたが、「仕事」と言う言葉を替えるだけで、この意味違いは何にでも使える。人生でも、出会いでも恋愛でも結婚でも離婚でも、死までもがそのようだ。意味の違い

  • 小林一茶

    世の中に混じらぬとはあらねども一人遊びぞ我は勝れる。と詠んだのは確か良寛さんだと思うが、人の浮世もままええものじゃが、離れておることが、わしゃ面白い。ということでは一茶も似ている。小林一茶、幼名、弥太郎、六歳の折の発句である。我ときて遊べや親のない雀小林一茶

  • 山中鹿之助

    (画/月岡芳年)語録の中では、「我に七難八苦与えたまえ」がつとに有名だが、「憂きことのなほこの上に積れかし限りある身の力試めさん」泣きっ面に蜂、苦境重なるそんな時この言葉に、励まされる。山中鹿之助

  • 歴史の授業

    (photo/source)選挙の候補者が三人いるとする。誰に投票するか答えてみよう。候補者1、ポリオの後遺症で障害がある、高血圧症と貧血を患い、他にも深刻な病気を抱えている。目的のためなら嘘をつき、政治を占星術師に相談する。愛人がいて愛煙家,マティーニが大好き。候補者2、彼は肥満だ。すでに落選3回、うつ症状に苦しみ心臓発作を繰り返している。鼻持ちならない男で葉巻を吸いまくる。そして就寝前に酒を浴びるように飲む、シャンパン、コニャック、ウィスキー、それから睡眠薬を2錠。最後は候補者3、勲章を受けた英雄で、女性に敬意を払う。動物を愛しタバコは吸わず、酒もめったに飲まない。さあ、誰に投票する?全員が候補者3に投票するだろう。君たちが落選させた候補者1はフランクリン・ルーズベルト、候補者2はウィンストン・チャー...歴史の授業

  • 朱鍾馗

    寒い暑い栄えたり枯れたり、これ天や地の呼吸のようなもの。苦しい楽しい恵まれたり辱められたり、これ人の生の呼吸のようなもの。と観じて、達者は、これらの感のどこに至ってもにわかに驚くことはない。朱鍾馗

  • 身の丈尺足らず

    環境とは、誰にとっても自己以外のすべて。宇宙とは、それとは反対に自己を含むすべて。宇宙と環境との唯一の境界は、自己。それは経験する観察者。身の丈尺足らず

  • 心は火のようなもの

    (gif/originalunknown)心は火に似ています。火はそれ自体では燃えませんし、これといった形もないものですが、火が付くというように、それが物に着いて初めてその体を成すようになります。炭火があり、焚火があり、燈火などいろいろありますが、炭を取り去り、薪を取り去り、燈を取り去ってしまって、火というものを掴むことはできません。それぞれ、炭に着いて、薪に着いて、蝋燭に着いて、初めてその形を表すのです。心もまた同じように、必ず何かに着いてその形を表すもので、単に心というものだけを掴むことはできないのです。善いものに着けば善となりますが、不善に着けば不善となるのです。心こそ心惑わす心なり、こころ、こころに、こころゆるすな。心は火のようなもの

  • 詠み人知らず

    期待なしに人生を生きること具体的な結果を必要とせずに生きることこれが自由というものかもしれません。句読点の入れどころがわからない。名言であるかどうかはわからないけれど一つの至言ではありそうだ。詠み人知らず

  • 一休さん

    行く末に宿をそことも定めねば踏み迷うべき道も無きかな今日はあそこの宿まで行って泊まろう、と思って急いでいるといかんせん、途中で道に迷ってしまった。結局そこまで行けず、ああなんてこった。しかし、既定、予定、思い入れ、などの定めをするから、迷い、焦りが生まれるのであって、それがなければ、そもそも「迷う」ということに意味はない。失敗と言うこともなければ、後悔と言うことも生まれない。行く当てのない旅は楽しい、と昔誰かが言っていたが、先を急ぐと、粋な発見や綺麗な風景を見落としてしまう。一休さん

  • 往生際

    腰かけて「みる」か。とは何事です。腰かけてみるのも、腰かけるのも、結果においては同じじゃないか。疑いながら試しに右へ曲がるのも、信じて断固として右へ曲がるのも、その運命は同じです。どっちにしたって引き返すことはできないんだ。試みたとたんにあなたの運命がちゃんと決められてしまうのだ。人生には試みなんで存在しないんだ。やってみるのは、やったのと同じだ。実にあなたたちは往生際が悪い。引き返すことが出来るものだと思っている。-太宰治「御伽草子」より往生際

  • 将棋

    将棋はとにかく愉快である。盤面の上で、この人生とは違った別な生活と事業がやれるからである。一手一手が新しい創造である。冒険をやってみようか、堅実にやってみようかと、いろいろ自分の思い通りやってみられる。しかもその結果が直ちに盤面に現れる。そのうえ遊戯とは思われぬくらいムキになれる。将棋は面白い。金のない人がその余生の道楽として、充分楽しめるほど面白いものだと思う。将棋を指すときは、怒ってはならない、ひるんではいけない、あせってはいけない。あんまり勝たんとしてはいけない。自分の棋力だけのものは、必ず現すという覚悟で、悠々として盤面に向かうべきである。そして、たとえ悪手があっても狼狽してはいけない。どんなに悪くてもなるべく、敵に手数をかけさすべく奮闘すべきである。そのうちには、どんな敗局にも勝機がぼつぼつと動...将棋

  • 善悪の弁

    宇宙(自然)のことをおもえば、そこには決して悪と言うものはないのです。ただ過ぎるとと及ばざるとがあるばかりです。この過ぎたるところ、及ばざるところが即ち悪と言う。また同じように宇宙(自然)のことは、別に善と言うものがあるのではありません。ただ過ぎたると及ばざるとがないところが即ちこれが善であるというのです。例えば、徳川家康が女中達に対し、世の中で一番うまいものは何かと問うた時、お梶の局が、「それは塩でございます」と答えましたので、「それでは一番まずいものは何か」と問うと、やはり「塩でございます」と答えたということです。なるほど、塩は調味料でこれが過不足なければ美味、もし過不足あればこれほど不味いものはないのであります。-出典不詳善悪の弁

  • 水月の関係

    水面に月が映っている、月影が水底に宿っている、いま月光は水中に広まっているが、月が隠れると、水そのものにはなにも残らず、月も光も痕跡を残すことも無い。いささかも執着の跡がない、このような境地を求める、これを水月の道場と言うらしい。人間に心があり、眼、耳、鼻、舌、身、意、の欲がある以上、財宝も、名誉も、美人も、酒も、もとより心の水に映ってくる。映るのは当然である。しかしながら、それが映ってきても、痕跡を残さないように、それが水と月との関係のようであったなら、そこに執着は微塵も起こらない。空華は夢という意味で、人生のすべてを一切夢であるとみる、金も名誉も美人も地位も、ことごとくが夢であると観じたならば、それに執着することは野暮でしかない。ということで、この句の意味は、「執着のないこの水月の関係のように、人生の...水月の関係

  • 苦は楽の種楽は苦の種

    とはいうものの、体験からいうと、辛いや痛いというのは何となく我慢できるけれども、苦しいというのはどうしようもなく苦しいのであります。苦は楽の種楽は苦の種

  • 良寛さん

    首を回らせば、七〇有余年、人間の是非、看破に飽きたり。往来跡幽かなり深夜の雪、一炷線香古窓の下。ー偈/良寛禅師良寛さん

  • 良寛さん

    生涯、身を立つるにものうく、騰々天心に任す。嚢中三升の米、炉辺一束の薪、誰か問わん、迷悟の跡、何ぞ知らん、名利の塵。夜雨草庵の裡、双脚等間に伸ばす。良寛さん

  • 良寛さん

    良寛さんは、年とるにつれて、人々から尊敬されるやうになった。みんなは良寛さんを偉いお方だと思った。べつだん良寛さんは、人が驚くやうな大きな仕事をしたわけではなかった。良寛さんの偉さはじみで、目立たなかった。ちょうど眼に見えないほど細い糸で、しみじみと降る春雨のやうに。春雨は土を黒く潤し、草や木を芽ぶかせてやる。良寛さんの人がらも、そのまわりの人々の心を潤し、浮ついていた心をしっとり落着かせ、知らぬ間に希望(のぞみ)と喜びの芽をふかせると言う風である。世間で偉いと言われている人々の中には、なるほど固い意志の力を持って大きな仕事をしとげはするが、人間らしさを持たないという人もないものではない。しかし良寛さんはそんな人とは違っていた。良寛さんは、飽くまで人間らしさを失わなかった。或日良寛さんは、野中の一本道を歩...良寛さん

  • いいね!をつける。

    魂は抗議する。「われわれは不運だ。これからどれほどつらい試練に堪えなければならないことか!肉体を満足させるためにどれ程いやなことをしなければならないことか!肉体は間もなく滅びるのに!」ー「コレ・コスム」ヘルメス古写本よりいいね!をつける。

  • 好きな詩

    勧酒、題からしてオッときます。井伏鱒二さんの意訳がまたこれぞ、です。蘇軾の春夜、春宵一刻値千金、声細細、夜沈沈、などもまたこれ韻を踏んで好きな詩です。好きな詩

  • すきな言葉

    落ち葉は風をうらまない。座頭の市さんが映画の中で吐いたセリフです。誰の言葉か同じような言葉に、気に入らぬ風もあろうに柳かな。というのもあります。いつのまにかこんな言葉がシックリときてストンと落ちるようになりました。すきな言葉

  • 天賦の才

    先日の王座戦で藤井聡太王座に敗れた永瀬拓矢九段が、試合後のインタビューで語っていた言葉が印象に残っている。藤井王座の強さを聞かれた永瀬九段は確かこんな風に答えていた。「私たちは通常未来や将来といったものを考えるから恐怖心のようなものが先に立って思い切った手を躊躇してしまうように思う。藤井王座にはそんなことは一切考えずに、今この瞬間に没頭しつくす凄味がある」。私は藤井王座の天才肌もさることながら、永瀬九段のこの洞察力に得心と共に敬意を抱くものである。天賦の才

  • 照鏡見白髪

    出世しようと思うていたにどうかする間に歳ばかりよるひとり鏡にうちよりみれば皺のよったを憐れむばかり也照鏡見白髪

  • なるようになる。

    通天閣のビリケンさんは、こう紹介されていた。“TheGodofThingsAsTheyOughttoBe”万事あるべきままの神、ということらしい。なるようになる。

  • とはいうものの。

    それにつけても銭の欲しさよ。とはいうものの。

  • 時と光

    「時が自らについて考えている、それが光だ」。そう書いたのは詩人オクタビオ・パスである。自省する時間こそが光となって出現する。深く示唆的な霊感である。時間は見えない。刻々と時を刻む経過的時間を可視化するためにつくられた装置が時計である。時計の時間は流れすぎてゆく。しかし、私たちが意識する時間とは生の営みのなかでただ直線的に経過するものだけではない。淡い朝の光が強烈な昼の太陽光線となり、やがて黄昏の光となって暮れてゆく。光の微細な変容の中で時間が生起し、時間が自らについて思索しているかのように様々な濃淡と色彩を持った光が明滅する。ー今福龍太「原風景への誘い」より時と光

  • いつの世も

    少年読者諸君に一言する。日本の政治は立憲政治である、立憲政治というのは憲法によって政治の運用は人民の手をもって行なうのである。人民はそのために自分の信ずる人を代議士に選挙する、県においては県会議員、市においては市会議員、町村においては町村会議員。これらの代議員が国政、県政、市政、町政を決議するので、その主義を共にする者は集まって一団となる、それを政党という。政党は国家の利益を増進するための機関である、しかるに甲の政党と乙の政党とはその主義を異にするために仲が悪い、仲が悪くとも国家のためなら争闘も止むを得ざるところであるが、なかには国家の利益よりも政党の利益ばかりを主とする者がある。人民に税金を課して自分達の政党の運動費とする者もある。人間に悪人と善人とあるごとく、政党にも悪党と善党とある、そうして善党はき...いつの世も

  • (カフクハアザナエルナワノゴトシ)フランツ・カフカは真実の道についての考察でこんな風に述べている。「真実の道は一本の縄。別に高く張られているわけではなく、地上からほんの少しの高さに張られている一本の縄を超えてゆくのだ。それは人々がその上を歩いていくためよりも、人々がそれに躓くためにつくられているように思われる」。縄

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