(写真:ロイター/アフロ)
(写真:ロイター/アフロ)

 いよいよ、米大統領選に向けた候補者指名争いが本格化した。2月1日、共和党、民主党の両党はアイオワ州で党員集会を実施。その結果に全世界が注目した。特に、ここ英国では、共和党の候補として名乗りを上げている不動産王ドナルド・トランプ氏の言動に、これまでも多くの人が関心を寄せてきた。

 1月18日、英下院で行われた異例の審議は3時間に及んだ。議題は、トランプ氏の英国への入国禁止の是非である。英下院を突き動かしたのは、トランプ氏の英国入国禁止を求める署名運動だった。これまでに、60万人近くがサインしている。

 発端は去年12月、米カリフォルニア州で起きたIS(自称イスラム国)信望者による銃乱射事件を受け、トランプ氏がイスラム教徒の米国への入国を禁止すべきだとの声明を発表したことだ。これに続いたメディアとのインタビューで、トランプ氏がイスラム教徒の「脅威」についてロンドンを例に挙げ、「(イスラム教徒たちが)極端に過激化し、警察でさえ恐れる地域がある」と言及。これが英国に住む多くの人たちをさらに怒らせた。

 まだ大統領候補にすらなっていない一富豪の発言に、英国のキャメロン首相も反応した。トランプ氏の入国禁止には反対の立場を示したものの、「(トランプ氏の発言は)分断的でばかげており、間違っている」「イギリスに来るなら、私たちは一致団結して彼に対抗するだろう」と述べた。また、ロンドン市長のボリス・ジョンソン氏も、トランプ氏が「ありえない無知」をさらしたと非難。渡英してくるなら「ロンドン観光に連れて行ってもいいが、一般市民が偶然トランプ氏に出くわしてしまう不要なリスクも避けなければ」とも皮肉った。

英議員が徹底議論した「トランプ入国拒否」の賛否

 議会審議での、主な発言は次の通りだ。

【入国禁止賛成派】

 野党・労働党議員「トランプ氏は国境1000マイル以内に近づけてはならない。国内の極右を勢いづかせる一方、テロの火種に油を注ぐだろう。ドナルド・トランプは馬鹿者だ。バカでいる自由はある。我々の国では、危険なバカでいる自由はない。」

 別の労働党議員「彼の言葉は有毒だ」「トランプ氏の使う言葉で、ヘイトクライムが煽られている」

【入国禁止反対派】

 与党・保守党議員「この男は気が違っていると思うし、言っている事に一理もないが、私が彼の言葉を奪うことはできない」

 別の保守党議員「この(トランプ氏の入国禁止を求める)動議は英国を不寛容で全体主義的に見せるもので、恥ずべきものだ。米国の人たちに謝罪すべきとさえ考える。トランプ氏の見解について、決めるのは彼らであり、私たちではない。」

「あほ」の表現にもウィットにこだわる議員

 議会での議論の争点は、「言論の自由対ヘイトスピーチ」となったが、トランプ氏の「とんでもない人柄」については、両陣営とも意見が一致していた。

 メディアによっては、討論で各議員らがトランプ氏を描写する言葉のみを集めて流すところも多く見られた。筆者が注目したのは「buffoon」および「wazzock」という、日常あまり耳にしない単語だ。オンライン検索すると、buffoonは「(ばかで)下品なおどけ者」(Weblio参照)。wazzockに至っては「ばか者」「愚か者」「あほ」「間抜け」「能なし」という、小学生の喧嘩とみまがうレベルの日本語対訳が付いている。ほぼ同じ意味のことを言うのに、議員たちが頭をひねって様々な単語を捻出した様は、さすがにウィットを大切にする英国的と言おうか。

 一国の議会でこう描写される、しかも米国の次期大統領となり得る人物も珍しいのではないかと感慨すら覚える。ちなみに、本人不在のまま、反論の余地もなく一方的に繰り広げられる欠席裁判のようにも見受けられたが、少なくとも英国内では大規模なトランプ氏擁護論は聞かれなかった。

英国に住んでいれば外国人でも議会を動かせる

 この請願書は上記の発言より前の、2015年11月下旬にスコットランド人の活動家が始めたものだった。発言以降、署名者の数が一気に膨れ上がり、翌日の12月9日午後には20万人、同日夜までに30万人が署名し、活動家自身も、驚きを隠せずにいたと報じられている。

 この署名制度では、1万人の署名で政府は署名者への回答を行い、10万人以上で議会審議を行う可能性を作るもので、必ずしも署名者の要望が実行に移されるものではない。キャメロン首相はトランプ氏の入国禁止を支持しないと早々に明言し、実際に入国禁止の権限を持つメイ内相は、この件について発言を行わないとしている。

 オンライン署名は議会が管理し、英国民、もしくは英国在住者であれば、一定の基準を満たせば誰でも始めることのできるシステムだ。署名できる人の条件も同様で、外国人居住者である筆者でも、氏名とメールアドレス、および居住している地域の郵便番号に該当するポストコードを入力するだけで、署名が可能であった。

 昨年末には登録してあったメールアドレスに、「英政府は個々の入国管理の事例についてコメントしない」としながらも、欧州経済圏以外からの国民については内相の権限において、公益性が見られず、社会に危険を及ぼし、基本的な価値観を共有しない人物について、その人物を排除することもあり得る、という趣旨の「回答」が送られてきた。

国民の憂さ晴らしに向き合う英国流民主主義

 過去の事例としては、反イスラムを公言しているオランダの極右政党党首が「公共の安全を脅かす」として、また、イスラム原理主義組織ハマスの議員が「(ユダヤ人に対するテロ行為を)正当化し、讃えている」として、入国を拒否されている。

 審議の結果、トランプ氏の入国禁止を問う議会投票は行われなかった。議長は審議入りの前に「審議は幅広い意見を示す場であるのみだ」と言及していた。

 では、こうした署名を集め審議を行うこと自体、どんな意味があるのか。

 欧州で難民問題が加熱する昨今、地理的に中東に近い欧州各地や英国へは、「難民を装ったテロリスト」がシリアから流れ込む確率は米国よりもはるかに高い。それでも、半数以上の州知事が難民受け入れ拒否を表明した米国のヒステリックな対応と、そこに便乗して候補指名争いを優位に進めてきたトランプ氏の人気に、英国に住む人々はあっけにとられ、批判をしてきた。

 英ガーディアン紙は審議後の分析記事で、こうした議会審議の目的は国民の「憂さを晴らす事にもある」と言及した。3時間あまりもの間、世間の憂さ晴らしのために議員らが延々議論を続けたのかと思うと、多少気の毒な気もしてくる。しかし、それが英国流の民主主義であり、60万人近くの英国居住者が、たとえ相手が米国の次期大統領候補であってもヘイトスピーチを許さないという態度を示したという意義は大きい。

多様性を受け入れる英国の懐の深さ

 前回書いた「#お前なんかムスリムじゃない」でも触れたが、若者たちの間でヘイトクライムはカッコ悪い、と言う意識が、少なくともロンドンでは広まっている。今回の署名活動に端を発した英下院での議論に見られるように、大人たちが特定宗教に対する差別や偏見に対して断固たる姿勢をとっていることが、若者たちにも良い影響を与えているのだろう。それは、単純に多様性を許容するという個人の寛容さだけに依拠しているのではなく、しっかりと制度として社会に組み込まれていることこそが、英国の民主主義の真骨頂とも言える。

 筆者は駐在時代を含めロンドンでの生活は10年目に突入しているが、この街に暮らして自分が「外国人」であると感じたことがあまりない。スーパーなどで買い物をしていると、レジに立つ人が英国生まれの白人であることは少ない。ロンドンはいわば「よそ者同士」の街であり、世界屈指の多民族都市だ。

 多くの民族が同じ空間を比較的、平和的に分かち合い、共存できる姿は、あたかも世界のあるべき縮図のように感じる。無論、差別が全く存在しないわけではない。面と向かって「長時間、働いてるふりばかりのバカな日本人」と言われたり、アジア人であることを理由に蔑視を受けたりすることも、時にはある。

 しかし、民族蔑視を是としないという前提が社会通念として存在し、議論の場があるという意味で、筆者個人としては、ロンドンの居心地はそう悪くない。言い返せるだけの語学力と議論の流儀を身につければ、差別発言をした本人と建設的な対話ができる可能性もある。今回の署名についても、外国人である筆者にも門戸を開いていることは、この国の客人としてではなく、社会の構成員として意見する権利と責任を与えられているものと理解している。

英国(スコットランド)は実はトランプ氏のルーツ

 移民都市が健全に機能するためには、少なくとも建前上、異文化を排除してはならないという意識と、それに基づく教育や制度が必要だ。昨今、特にイスラム教徒に対して増えているとされる「ヘイトクライム」は、たとえそれが言葉の暴力だけであっても、英国では犯人は逮捕、起訴され、立派な犯罪として裁かれる。ロンドン警視庁は、専門の警察官900人以上をロンドン中に配備し、パリでのテロ事件後、ヘイトクライム対応を強化したという。

 「トランプに英国の地を踏ませない」と、世論が議会を動かしたことに、母が生まれたスコットランドにゴルフ場など巨額の資産を持つトランプ氏もさすがに慌てたようだ。議会審議が決定した翌日、入国禁止措置が取られれば総額およそ7億ポンド(約1200億円)に及ぶスコットランドへの投資を中止するとの「脅し」をかけた。

 しかし、当のスコットランドではイスラム教徒排除発言への措置として、トランプ氏に与えていた名誉学位やビジネス大使の肩書きを剥奪した。入国がたとえ禁止されなくとも、今後、トランプ氏の英国訪問を歓迎する市民は少なそうだ。

 テロの脅威が日常の現実である英国では、コミュニティーの連携を強化すると同時に、それが分断される危険を排除しなければならない。入国禁止賛成の立場をとった野党労働党のジャック・ドロミー議員は、「英国では1日に1人のペースで、テロ関連の逮捕者が出ている。テロ攻撃を防ぐ鍵は、警察がイスラム教徒のコミュニティーと地道に良い関係を構築してきたことにある」と述べた。

3万件もの偽装署名は誰が?

 最後に一つ、議事録から興味深い情報に行き着いた。トランプ氏入国禁止の署名活動と並行して、トランプ氏を「入国禁止にさせない」誓願書も提出されていた。本稿執筆現在(2月1日午前)署名総数は4万4000件ほどで、議会討論に必要な10万件にも満たないが、先の「トランプ入国禁止嘆願署名」と同時に審議された。

 しかし、議事録によれば、この4万あまりの署名の他に、3万件ほどあった署名が「1カ所からなされている疑いあり」として、削除されたとしている。議事録には、「このシステムを不正に利用しようとする者は、それが暴かれることを知るだろう」と続く。オンライン署名手続きは比較的簡素であるとはいえ、3万人分もの署名を偽装したとは穏やかではない。

 はたして、その出所とはどこなのか。

 共和党の大統領候補指名が、こうした操作とは無縁かつ、公正に行われる事を期待したい。

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