魅惑の青空市場
トーゴには1週間ほど滞在して、ほぼ毎日、首都ロメの青空市場(グラン・マルシェ)を訪れた。
ローカルな食材が並んだ市場をゆらゆら歩くのは、どの国にも共通するたのしみだろう。
偏った視座を有することに定評のある私の観察によれば、ロメの市場は、これまで私が訪れたなかで、最もにぎやかで、最もカラフルで、つまりは最も楽園に近い場所であった。
めずらしい外国人に対しても、「ふっかけ」みたいなことはまずしてこない。でもフランス語の数字くらいは覚えておくと便利だろう。
もっと距離を縮めたければ、現地のことばを知るとよい。具体的には、トーゴ南部に暮らすエウェ族の人たちが話すエウェ語を覚えるとよい。
だが、日本語で書かれたエウェ語の学習書はない。そこで私は、トーゴの伝統布を日本に届けるビジネスを興した中須俊治さんに取材して、彼のフィールドワークから生まれた単語帳を拝借した。
本人の許可を得て、ここにその一部を公開したい。
アッペィー |
ありがとう |
エベベドナミ |
こんにちは |
ンデクク |
お願いします |
エンニョ |
いい |
エニョント |
めっちゃいい |
バ |
来て |
ミバ |
みんな来て |
ンボナ |
いま行く |
ンボナロー |
いま行くよ |
マイガゼ |
うんこ |
ソベド |
元気?(※) |
ドソ |
元気(ソベドに対して) |
ベベド |
元気? |
ドベ |
元気(ベベドに対して) |
ニソベト |
元気? |
ドニソ |
元気(ニソベトに対して) |
※ その日はじめて会う人に「ソベド」、2回目に会う人に「ベベド」、3回目に会う人に「ニソベト」と言う。(4回目以降は不明。さらなる研究が待たれる)
その言語がマイナーであればあるほど、現地民に与える感銘は大きくなる。私が英語を話してもアメリカ人は驚かないが、カザフ語を話すとカザフ人は喜ぶ。いわんやエウェ語をや、である。
トーゴに行きたい貴方へのアドバイス。アッペィー(ありがとう)とエニョント(めっちゃいい)。この2語を覚えておこう。感動されること請け合いだ。
年末の祝祭ムード
2019年12月31日に、私はトーゴに到着した。
年の区切りはエウェ族の人たちにも特別であるようでーーその日の夜に警察に連行された私は、「これが今年最後の事件だ。おめでとう」と言われたーー祝福された空気に満ちていた。
まっすぐに歩けないほどの人混みのなか、ご機嫌な兄ィが演奏をはじめる。たちまち皆が踊りだした。
「おまえも来いよ!」と誘われて、ダンスバトルに参戦した。
近くの少年にiPadを手渡し(このときは一人旅だった)、動画撮影をお願いする。でも彼は録画ボタンの概念を知らなかったから、ただiPadを握りしめていただけだった。私の伝達ミスだった。
私は少年に「アッペィー」と言った。彼は笑って、私も笑った。
お店の看板を観察する
路上ではお店の看板をよく見かけた。
文字の読めないお客さんへの配慮だろうか(トーゴの識字率は6割)、イラストが中心に描かれていて、一介の旅行者にもわかりやすい。
おおらかな画風には、素朴派というか、アール・ブリュットというか、どこか見る者の気持ちを和ませるものがある。私は写真を撮りためた。
国境そばの動物園に行く
首都ロメの中心部から10キロほど離れた地点に、Fauna Culturaという動物園がある。
ここは旅行ガイド「Lonely Planet」にも掲載されていないが、Google Mapでは「驚くべき場所にある」などのクチコミが出てくる。
驚くべき場所にある…?
なるほど、ここはガーナとの国境線から、約500メートルしか離れていない。
なぜ、こんなところに立地しているのか。
私の可処分時間は、豚に食べさせるほど余っていた。行かない理由はどこにもなかった。
動物園に辿り着くのは、容易ではなかった。
なにしろGoogle Mapの位置からして間違っていたし(2ブロックほど西にずれていた)、近くまで来ても道案内の類がまるでなかった。
国境の近くを歩いていたら、密入国と間違えられて銃口を突きつけられた。ガーナの査証を所持していなかったからだ。
結局、見つけるまでに4時間くらいかかった。
それらしきポイントを特定しても、入り口には受付どころか看板もない。
赤茶けたドアを開けても誰もいない。外形的には、家宅侵入と変わらない。
動物園に入場するだけで、こんなにも不安な気持ちにさせられる。旅をしていると、いろいろと前例のない体験をするものだ。
ひび割れた敷居をまたいで、中庭へ進む。
そこで私が目にしたのは、動物園というよりも、むしろ「動物が無理に詰め込まれた廃住居」だった。
管理人らしき男性が現れて、敷地をガイドしてくれた。
Satoru: この動物たちは、トーゴに生息しているのですか?
男性: ほぼそうだけど、砂漠に住む生き物は、マリやニジェールなどから買ってきたよ。カメとかラクダとかね。
Satoru: ここは個人運営の動物園なのですか?
男性: そうだよ。動物好きのオーナーがいるんだ。
Satoru: なぜこんなに国境近くにあるのですか。
男性: わからないよ。
「そんなことより」と、彼は衣装ケースのような箱から小さなワニを取り出して、「これを持ってみなよ」と言った。
飢えた顔つきのワニは、弾んだように暴れて、私の指に強い関心を示す。なにか不穏な感じがあった。「これ、本当に大丈夫ですか?」
「問題ないよ」と男性が答えた。「首をしっかり掴まないと指を食いちぎられる。でも問題ないよ」
そのような状態こそを問題と呼ぶのではないか、と思った私は、おそらく過保護に育てられたのだろう。私は手元に神経を集中させた。
豊かさとは何なのか
トーゴは「最貧国」のカテゴリにある国だ。GDPはコートジボワールの1割弱しかない。
けれども私には実感がない。動物園が「内陸国から砂漠の生き物を買っている」話からも、むしろ沿岸国の恵みが察せられた。
いや、私は「お金がなくてもハッピー」という話をしたいのではない。お金は明らかに必要だ。アフリカの人たちが元気にみえるのは、元気でなければ生きていけない世界であるからだ。
そうした認識に立ちつつも、ロメの市場に、路上の看板に、乳児の紙おむつに、お爺さんがスマホで電子決済をするさまに、私は豊かさを見出した。
アグー山(標高986m)の山道を歩けば、アボカド、カカオ、コーヒー、オレンジ、バナナ、パパイヤ、サトウキビ、パイナップルが自生している。
豊かさを「選択肢の多さ」と解釈するなら、トーゴは統計上の数字ほどには貧しくないのではないか。私はそのように仮説した。
海辺のスラムに行く
豊かな面のあとには、貧しき面にも目を向けたい。
エウェ語の単語帳をくれた中須さんが、出発前に、とあるスラムの話をしてくれた。
トーゴには西アフリカ屈指の良港があって、重要な物流ハブになっている。沿岸から急に深くなる地形のおかげで、大型船が停泊できるのだ。
中国資本が投下されたが、地元経済の恩恵はあまりない(私はスリランカ・コロンボ沖の人工島プロジェクトを連想した)。住む家を失い、困窮した者たちがスラムに追いやられた。
「そこには優しい人たちがいます」と中須さんが言った。「でもSatoruさん、気をつけてください。無理をして行く必要はありません」
灼熱の太陽が地面を照らす。私はひとりでスラムに向かった。
海辺のスラムは、ココ・ビーチという観光客向けのスポットに隣接していた。
白人がくつろぐ瀟洒なホテルと、中国人が管理する工事の現場。その両者にぴったりと挟まれた場所にスラムがあって、そこに住むのは黒人だけだった。
私には何も言葉がなかった。
スラムの住民は友好的だったが、みだりに撮影できる空気ではなかった。語られないマナーがそこにはあった。
スラムの内部では、ひそやかな商業活動がなされていた。
看板はなく、軒下に半身を入れないとわからないのだが、雑貨を扱ったり、散髪をしたりする小屋がいくつかある。住人だけに知られる力学で、互助的な小世界が成り立っていた。
夜のビーチを歩いてはいけない
ひったくり被害に遭ったのは、スラムとはまったく関係のない、ロメ中心部のビーチ沿いの歩道だった。
私の布製トートバッグが、背後から力任せに破り取られた。
このとき私は過ちを犯していた。第一に、日没後にビーチ付近を歩いていたこと。第二に、バッグを肩にかけていたこと。どちらも慎重に避けるべきであった。
バッグには、iPad Proの第2世代、紙パックのオレンジ果汁、そして孤児の支援活動をする老爺から買った小さな絵が入っていた。
「絶対に捕まえてやる」と、私は逆上して犯人を追った。あとになって思えば、この行動は第三の過ち、それも致命的な過ちだった。
私のほかに犯人を追う男がひとりいた。この見知らぬ「助っ人」と私で、挟み撃ちにしてやろうと決心した。
暗闇の追走劇がはじまった。
砂に足を取られながら走ること10分弱。
犯人を海岸線に追いつめた。かつてトレイルラン(舗装されていない自然の道を走るスポーツ)で鍛えた身体が、こんな場面で役立った。
男はナイフを取り出して「キル・ユー」と叫んだ。おまえを殺す。フランス語ではなく英語だったので、誤解なき意思が伝えられた。
とっさに思い出したのは、旅行保険の内容だった。私が死亡すると、妻子に約1,200万円が振り込まれるはずだった。
「手持ちの現金を渡すから、とにかくiPadを返してくれ」と説得を試みた。でも男は激しく興奮していて、対話の成り立つ余地はなかった。ナイフを握る手が震えていた。
息をのむ膠着状態のあと、男は「助っ人」の脇から逃げ去った。なぜ捕まえないのか、と訝しんだ瞬間、「助っ人」が私に殴りかかってきた。
なるほど、こいつらグルだったのか。
男の腕力に負けて、私は砂上に組み伏せられた。のみならず、服の内側に隠していた貴重品(首から下げる財布)を探り当てられた。
「息子の写真が入っているんだ」と、私は叫んだ。嘘だった。ひるんだ悪漢に一撃を加えた。
形勢逆転とはならなかった。男に組み敷かれたまま、人差し指の爪を剥がされた。それでも財布を離さなかった。上からぼこぼこに殴りつけられた。夜のビーチに怒号が響いた。
1,200万円、と私は思った。
犯人2名は逮捕された。
闇の奥から颯爽と迷彩服が現れて、はたしてその男が警官だった。
暴漢たちは逃亡を試みたが、5分ほどあって、彼らを捕縛した警官が姿を見せた。
トーゴの警察はパトカーを持たない。私は促されて白バイの後ろにまたがった。この国のあらゆるバイク・タクシーの客と同じように、ヘルメットの類は渡されなかった。
犯人を署まで連行するタクシー代は、なぜか私が支払うことになった。
犯人2名と警官4名と私が警察署の小部屋に集まり、取り調べが開始された。
私が陳述する間、警官たちが犯人の顔面を何度も殴打した。そのたびに重く、鈍い音がした。
やがて男が泣き出した。拳骨はさらに容赦なく浴びせられた。頭の一部が陥没した。警官たちは笑った。屈託のない笑い声だった。
「こいつらは明日から刑務所に入る。だから安心してトーゴの旅を続けてくれ」と、その場で最も役職の高そうな警官が私に言った。
取り調べが終わり、別れ際に「もっと強くなれ」と励まされた。「もっと強くなって、そうしてまたトーゴに戻ってきてくれ」
その言葉をいまでも覚えている。