江戸の放火少女「お七」の犯行動機が“ピュア”すぎて怖い…16歳の少女を待ち受けていた悲劇的な結末とは歌舞伎の『松竹梅湯嶋掛額』をモチーフに描いた月岡芳年の錦絵。火の見櫓にのぼり太鼓を打ち鳴らそうとするお七。国立国会図書館所蔵

1682(天和2)年12月28日、江戸で大規模な火災が発生した。「天和の大火」だ。火事で焼け出されたある一家に、「お七」という名の娘がいた。年齢は15〜16歳。一家は避難所となった近隣の寺に身を寄せ、他の被災者たちと共同生活を送ることになった。そこでお七は寺の小姓と恋仲に陥る。世にいう「八百屋お七」の物語は、こうして始まる。(歴史ライター・編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)

お七の素性は
実はほとんどわからない

『武功年表』(1590/天正18年から幕末までの江戸の出来事をまとめた書)は「天和の大火」を次のように記している。

「(1682/天和2年)十二月二十八日未下刻(午後2時頃)、駒込大円寺より出火。本郷・駒込・上野・下谷池の端・神田の辺り・日本橋まで火が広がり(中略)本所・深川に至って、夜に入って鎮火」

 死者推定3600人余を出した大惨事であった。

 続いて火災の見聞録『天和笑委集』(てんなしょういしゅう/1684[貞享元]年〜1688[元禄元]年成立)はこう綴る。

 大円寺から北へ2キロメートルほどの本郷森川町(現在の文京区本郷5〜7丁目)に住んでいた八百屋のお七の一家が焼け出され、近くの正仙院(しょうせんいん)という寺で避難生活を始めた。

江戸の放火少女「お七」の犯行動機が“ピュア”すぎて怖い…16歳の少女を待ち受けていた悲劇的な結末とは『八百屋お七の考抜萃(ばっすい)』(制作年不明)に天和の大火当時の現場の略図がある。左が火元となった大円寺。右が2キロメートル離れた場所にあったお七の家とされている(赤枠部分)。国立公文書館所蔵

 お七は避難生活中、寺の小姓だった庄之助を見初めて恋仲となった。だが家が再建され、おそらく翌年(1683/天和3年)の2月末頃までには正仙院を出て、新生活に入った。