初めてキアロスタミ作品を見た。正直ウガンダ人の英語を半分も理解することができなかったが、その分異化作用は大きかった気がする。わずか10日間の取材でこれだけの長編ドキュメンタリーを作ったことに感銘を受けた。果たしてMuseveniのABC政策はどれほど認知され、成果を上げているのだろうか。20年近く前に撮影されたマサカの風景を見たときに、まずそのことを訝しんでしまった。カメラに映し出された光景は、さながらとことわに表象してくる仮象のようだった。
作品では主にウガンダにおけるHIV孤児やそれを支援するNGOなどを写しているわけだが、ウガンダに対するイメージをこの作品に映し出されているウガンダの子どもたちに代表させてしまう倒錯は起きなかったように思う。現象学的芸術として解釈することができた。それはおそらく、作品の随所に撮影スタッフが映り込んだり撮影シーンを盛り込んでいることにあるだろう。一見編集が雑なようにも思えるが、「被写体」であるウガンダの人々だけでなく自身も作品に投入することによってこの映像があくまで彼が見たものであることを強く意識させる。ところどころに「歪な撮影者」が入り込むことによってそれが認識の転換(あるいは修正)を図る装置として機能し、映し出される人々を収斂させることなく、彼ら一人ひとりを属性を取り払った個人として認知された。私が見た出来事は決して一般化することなく、一つの比類なき悲劇として滞留を続けている。
それにしても、やはりウガンダは思考としての実在があまりにも大きすぎる。解釈しきれないものが多い気がするし、解釈できているかも危うい。しかしそれでも彼らは実在している。彼らには充足理由律があり、存在する必然性がある。存在者が存在することはロゴスでは説明できない。このような言い方をしてしまうと理性を否定しているようでもあるが、意味が意識によって構成されるその限りにおいて理性は求められるのではないだろうか。存在者が存在することそれ自体に意味を求めることはできないが、それでも存在している。行き場がなくても存在する。存在してしまう。存在することそれ自体に善悪はなく、ただ存在することが存在するのだ。したがって理性は目の前に現象してくる存在と折り合いをつけるときに理性が必要なのだと思う。言うなれば身振りの問題だろう。そのことが、悲しくもマサカで慣れた手つきで喪の作業を行う住民たちを撮るキアロスタミの姿勢に、彼の存在に対する身振りが顕著に現れていたように思う。