映画『ドライブ・マイ・カー』と小説『女のいない男たち』の意外な相違点〜村上春樹作品と「非モテ性」
米アカデミー賞に作品賞などにノミネートされ話題を呼んでいる、映画『ドライブ・マイ・カー』。じつは同作と、原作である村上春樹『女のいない男たち』の間には、見逃せない相違があると批評家の杉田俊介氏は指摘する。そしてその違いからは、村上春樹作品と「非モテ性」の関係が浮かび上がってくる。
女性の「本心」と対峙できない
以前、濱口竜介監督の映画『ドライブ・マイ・カー』について男性学/メンズリブ的な視点から読み解いてみた(「『ドライブ・マイ・カー』が「自分の傷つきに気づきにくい男性」に与えてくれる“大切なヒント”」」)が、ここでは、村上春樹原作の小説『女のいない男たち』と映画『ドライブ・マイ・カー』の違いに注目してみたい。
というのは、映画『ドライブ・マイ・カー』は極めて完成度の高い原作の改変・翻案(adaptation)を行っているのだが、それによってかえって小説『女のいない男たち』における重要な問いが見えにくくなっている、という面があると感じられるからだ。そのことを「映画版は春樹の小説の中のダメな部分を適切に処理し、多様性を尊重するグローバルな価値観に対応しうる作品へと高めた」というアングルのみによって片付けられるだろうか。
まず重要に思われるのは、「正しく傷つくべきだった」という『ドライブ・マイ・カー』のテーマを象徴するかのような言葉が、じつは、原作である村上春樹の連作短編小説『女のいない男たち』の中には、直接的には出てこない、という点だろう。
『女のいない男たち』には、「ドライブ・マイ・カー」「イエスタデイ」「独立器官」「シェエラザード」「木野」「女のいない男たち」という六つの短編(と、村上の著書にしては珍しい「まえがき」)が収録されている。
映画のラスト近くの「僕は正しく傷つくべきだった」という家福の「本心」が語られるシーンのもとになるのは、短編「木野」である。中年男性の木野は、長らくスポーツ用品店に勤めていたが、ある時、会社でいちばん親しくしていた男性の同僚が妻と寝ていた、という場面に出くわす。その後は会社を辞め、妻と別れ、伯母の所有していた喫茶店を引き継ぎ、小さなバーを開店する。
バーにはやがて灰色の野良猫や、カミタという謎めいた男性などが訪れるようになる。しばらくして、木野と妻の間に正式な離婚が成立し、そのために必要な案件もあり、妻が木野の店にやってくる。
以下は、そのときの二人の会話。
「あなたに謝らなくてはいけない」と妻は言った。
「何について?」と木野は尋ねた。
「あなたを傷つけてしまったことについて」と妻は言った。「傷ついたんでしょう、少しくらいは?」
「そうだな」と木野は少し間を置いて言った。「僕もやはり人間だから、傷つくことは傷つく。少しかたくさんか、程度まではわからないけど」
「顔を合わせて、そのことをきちんと謝りたかった」
木野は頷いた。「君は謝ったし、僕はそれを受け入れた。だからこれ以上気にしなくていい」(略)
彼は言った。「誰のせいというのでもない。僕が予定より一日早く家に帰ったりしなければよかったんだ。あるいは前もって連絡しておけばよかった。そうすればあんなことにはならなかった」
妻のどこか他人事のような言い草への反論や違和感を、木野は何も口にしないし、責めない。「君は謝ったし、僕はそれを受け入れた。だからこれ以上気にしなくていい」と、妻をかばうようなことをさえ言う。
しかし木野は、妻の前で、半ば嘘をついている。加害者の立場にある妻の先回りをし、彼女が謝罪するより前に許してしまっている。木野が善良だからではない。木野は単純に、彼女の「本心」に対峙するのが怖いのだ。妻の中の真理――「女」という「真理」(ジジェク)――に直面したくなかったのである。