「人類学」という言葉を聞いて、どんなイメージを思い浮かべるだろう。聞いたことはあるけれど何をやっているのかわからない、という人も多いのではないだろうか。『はじめての人類学』では、この学問が生まれて100年の歴史を一掴みにできる「人類学のツボ」を紹介している。
※本記事は奥野克巳『はじめての人類学』から抜粋・編集したものです。

運命的な一日

人類学に多大な影響をおよぼし続けているティム・インゴルドは、人間とは有機体(生命を持っている個体。つまり生物)であり、それと同時に社会的な存在でもあるのだと考えました。助けになったのは、ジェームズ・ギブソンの生態心理学でした。インゴルドは特に1979年に出版された『生態学的視覚論』に影響を受けたといいます。

ギブソン以前の心理学では、人は頭の中で感覚的に世界を思い描くことによって、周囲の環境を知覚しているのだと考えられていました。人は光や音、皮膚に感じる圧力をキャッチして、それらを頭の中で知覚として組み立て、それに続く行動の指針にしているという考えです。その考えによれば、心とはデジタル・コンピュータに似たデータ処理装置になるでしょう。ギブソン以前の心理学者は一般に、そのデータ処理装置がどのように働いているのかを解明しようとしたのです。

しかしギブソンのアプローチは、それとは大きく異なっていました。ギブソンにとって、感覚は知覚の原因ではなかったのです。

たしかに、人は氷に触れたら冷たい、熱湯に触れたら熱いと感じます。つまり、感覚(この場合、触覚)が知覚の原因になっていると言えます。ですが一方で、触らなくても氷が冷たい、熱湯が熱いということを、私たちはすでに経験から知っています。そうすると、感覚は知覚の原因になっているとは言えなくなります。触れたり、見たりした時に感じるものと、周囲の環境を知覚することは、はっきりと切り分けられないのです。

(PHOTO)gettyimages

そのように考えれば、知覚は必ずしも感覚によって生じるものであるとは言えなくなります。ギブソンは、知覚は、周囲の環境のまっただ中において、有機体が達するものだと考えました。言い換えれば、知覚する者が環境の中に没入することによって構築される感覚経路のネットワークのうちに、知覚はすでに内在しているのです。感覚と知覚は、最初から一体化しているのです。

長い間、「自然」と「社会」の二項対立に悩み続けてきたインゴルドは、感覚と知覚を対立的なものとして捉えないギブソンの心理学を知ることで、ようやく突破口を見いだすことができたといいます。そして1988年4月のある土曜日の朝、バスに乗ろうとした時に、突然、有機体と人は一体なのだというアイデアが閃いたのです。『人類学とは何か』の中でインゴルドは、「あの日を境に、私はその時まで自分が主張してきたことすべてが、救いがたいほど間違っていたと思えるようになったのである」とまで述べています。

生物物理学的な要素と社会文化的な要素を別々に理解するのではなく、生きている現実をまるごと受け止めて人間を捉えることが重要なのです。インゴルドはそのために、物事を異なるレイヤーに切り分けて語ることから脱却しなければならないと考えました。

こうした検討を踏まえて、人間とは生物学的な個人でもあれば、社会的な個人でもあり、その2つがひとつになった生物社会的存在だという考えを打ち出すようになります。これは、後のインゴルドの思索を牽引する重要な出発点となり、その意味で、人類学にとっても大きなパラダイム転換への足がかりとなりました。そのことを『人類学とは何か』の中で、以下のように述べています。

遺伝子と社会の産物であるからではなく、生きていて息をする生きものとして、自らや互いをつくるからである。彼らは、二つのものではなく、一つなのである。(インゴルド『人類学とは何か』奥野克巳・宮崎幸子訳、亜紀書房、2020年、116頁)

彼らとは人間のことです。インゴルドはこう述べて、人間は生物社会的存在だと宣言しました。人間は生まれて成長し、年老いて死を迎える「生物的存在」であるのと同時に、言語を身につけ、それぞれの文化の中で社会的関係を結んで暮らす「社会的存在」でもあり、その両方が分かちがたく進行する存在に他ならないのです。それがまさに、私たち自身のことなのです。

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