佐々木俊尚 現地レポート Vol.1
「客観中立報道」という枠組みを乗り越え
被災地から生まれた「メディアの可能性」
特別寄稿 そこに日本の未来はあるのか
4月20日から3日間、仙台から名取市、北上して気仙沼へと宮城県内の被災地を取材した。岩手県の陸前高田にも足を延ばした。津波に襲われ、ほとんどすべてが瓦礫となった街をいくつも見た。しかしそれらの恐ろしい光景を見ても、「凄い・・」「怖い・・」という脊髄反射的な感想しか浮かんでこない。語る言葉が何も見つからないのだ。
被災地のような現場に取材に行くのは新聞社を辞めて以来で、十数年ぶりだ。記者の勘みたいなものが錆び付いてしまったのだろうか、とも思った。しかし、どうも違うような気もする。
新聞記事によくあるような「人々の平和で幸せな生活を津波は洗い流し・・」といった形容詞で語るのは簡単だ。しかしそういうステレオタイプなことばを発したとしても、何かを語ったような気持ちにはとうていなれない気がした。
かといって、ステレオタイプではない自分の言葉で何かを語ろうとしても、何も言葉が出てこない。ただひたすら、目の前の瓦礫の山に圧倒されるしかない。
「違和感」の正体
気仙沼市。三日三晩にわたって燃え続けた瓦礫の山の上に、押し波で乗り上げてきた巨大な漁船が鎮座している。
同行してくれていた地元の若者が、「映画のセットみたいですよね」と言った。そう、本当にパニック映画か何かのセットにしか見えない。震災の当日、帰宅する途中の大渋滞のクルマの中で、車載テレビのNHKニュースに映し出されていた津波の映像を思いだす。仙台平野を押し流す黒い波の映像は恐怖に満ちていた。でもそれは、パニック映画を見た時の映画館の暗闇の恐怖と実はたいして変わりがないようにも思えた。
この違和感はいったい何なのだろうか。その回答のヒントを得たのは、気仙沼市の元市職員、山内繁さんといっしょに被災地を移動していた時だった。山内さんは瓦礫の山を歩きながら、幾度となく繰り返した。「ここにはねえ、おいしいラーメン屋があったんだよね」「このあたりは飲み屋が並んでたんだ」「男山の店が倒れてる。ここは国の有形文化財でね、観光客に人気があった」