土井利益
土井利益(どい とします、慶安3年(1650年) - 正徳3年閏5月25日(1713年7月17日))は、江戸時代の譜代大名。下総古河藩主、志摩鳥羽藩主、肥前唐津藩主。父は土井利隆。正室は太田資宗の娘。官位官職は従四位下周防守。
宗家相続
古河藩第2代藩主利隆の次男として生まれる。万治元年(1658年)9月7日利隆の後を相続した兄利重より、常陸・下総国内の1万石を分封されて大名となった。延宝3年(1675年)閏4月29日、利重の後を継いでいた第4代藩主土井利久(利重、利益の弟)がわずか10歳で夭折し、古河土井家は無嗣により絶家となってしまった。しかし、第4代将軍徳川家綱は、家祖土井利勝の功績を想い特別の計らいを以って土井家再興を許し、分家していた利益に宗家相続を命じた。こうして5月晦日、利益は古河藩第5代藩主となり7万石を領した。延宝5年(1677年)古河城北端に鎮守として頼政神社を創建、源三位頼政を祀った。
志摩鳥羽、肥前唐津へ
天和元年(1681年)2月25日、利益は志摩鳥羽7万石への転封を命じられる。鳥羽藩は内藤氏が3万3000石を領していたが、延宝8年(1680年)6月26日に藩主内藤忠勝が刃傷を起こして切腹、7月9日改易となり天領となっていた。鳥羽を治めている間、近江国蒲生郡小口村の東江・奥清兵衛の学徳が高いと聞き、礼を厚くして迎えたことが、後の唐津での藩政に生きることになる。元禄4年(1691年)2月9日、今度は肥前唐津7万石へ転封される。
奥東江(おく とうこう)
唐津藩は長崎見廻役の義務があるなど、幕府治世の重要拠点と位置づけられていた。利益は奥東江の学問をこれら政務や士民教育に生かそうと考えた。利益は教育熱心で、江戸藩邸に当時の有名な儒者を招いて、家臣とともによく講義を聞いていた。また儒者を家臣に加えて教えを受けることもしていたらしい。東江は老母を心配し辞職を願い出たが、利益は毎年母に会う期間を許す約束をして、引き留めに成功した。唐津での東江は、郡奉行や長崎勤番などを勤め、その学問や識見を現実の政策に生かし、善政を布いた。よって領民の尊敬は並ならぬものだったらしい。利益の信任も厚く、新参の身であった東江を、五百石の家老格に抜擢し、嫡子利実の養育もさせた。その後東江は江戸藩邸詰めを命ぜられたが、母の病が重くなったので看病のため帰郷し、母の死を見取った。しかし唐津に帰る前に自分も病没してしまった。東江は死の床で江戸の方角を拝し、涙して利益の恩を謝したとのことである。東江の学問は後に唐津において「奥流の学」として確立した。
利益は、正徳3年(1713年)閏5月25日、64歳で没した。
関連項目
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