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{{半保護}}
{{Otheruseslist|'''[[日本]]固有の[[紋章]]
{{出典の明記|date= 2016年12月28日 (水) 10:18 (UTC)}}▼
== 概要 ==▼
[[File:Imperial_Seal_of_Japan.svg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Imperial_Seal_of_Japan.svg|右|サムネイル|[[皇室]]の紋章である「[[菊花紋章]]」。]]
[[File:Goshichi_no_kiri_inverted.svg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Goshichi_no_kiri_inverted.svg|サムネイル|[[豊臣氏|豊臣家]]の家紋である[[桐紋]](五七の桐)。<br />[[2023年]]([[令和]]5年)[[現在]]は[[日本国政府|日本政府]]の紋章として使われているが、'''元々は皇室の紋章(替紋)'''で、桐をかたどったもの。]]
[[File:三つ葉葵(徳川葵).png|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E7%B4%8B%E3%83%BB%E4%B8%89%E3%81%A4%E8%91%89%E8%91%B5-tokugawa-emblem-mitsuba-aoi.png|右|サムネイル|[[徳川宗家]](徳川将軍家)の紋章。「[[葵紋#三つ葉葵|三つ葉葵]]」。]]
[[File:Gourd-Shaped Sake Bottle with Aoi Crests.jpg|thumb|200px|[[徳川氏]]の[[葵紋#三つ葉葵|三つ葉葵]]紋が描かれたひょうたん型の蒔絵酒器。<br />([[江戸時代]]、[[18世紀]]、メトロポリタン美術館蔵)]]
'''家紋'''(かもん)とは、[[個人]]や[[家族]]を識別するために用いられる[[日本]]の[[紋章]]である。 [[日本]]では、構造的な類似性に基づいて241種類の一般的な分類がなされており(1つの紋が複数の分類に属することもある。)、5116種類の個別の紋が存在する(ただし、この分類に含まれていない失われた紋や無名の紋が存在することもよく知られている<ref>日本の家紋大全 梧桐書院 {{ISBN2|434003102X}}</ref><ref>Some 6939 {{lang|ja-Latn|mon}} are [https://x181.secure.ne.jp/~x181007/kamon/goodslist.cgi listed here] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20161028043638/http://x181.secure.ne.jp/~x181007/kamon/goodslist.cgi|date=2016-10-28}}.</ref>。
▲== 概要 ==
=== 家紋のおこり ===
「'''源・平・藤・橘'''(げん ぺい とう きつ)」と呼ばれる「[[源氏]]
家紋は
=== 家紋の発展 ===
その後、[[武家]]や[[公家]]が家紋を使用するようになった。
=== 制限について ===
特別な紋章や場合を除いて、家紋を幾つも所有することは自由であったこともあり、墓地や[[家具]]、船舶にまで付けられるほどまでに広まる。
=== 英語での表記について ===
[[英語圏]]で用いられる[[象徴]]({{lang|en|Symbol}})は[[抽象|抽象的]]な図案を指し、紋章({{lang|en|Coat of arms}})は[[視覚|視覚的]]な図案を指すが、日本の家紋は「[[兜]]飾り」の意味から {{lang|en|Family crest}}、{{lang|en|Crest}} といった英語で表現されている。これは、[[西洋
== 歴史 ==
[[File:Sekigahara Kassen Byōbu-zu (Gifu History Museum).jpg|thumb|center|800px|合戦場を埋め尽くす家紋入りの[[幟]]。
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<small>岐阜市歴史博物館蔵収蔵『関ヶ原合戦屏風』([[江戸時代]][[wikt:後期|後期]])</small>]]
=== 平安時代 - 鎌倉時代 ===
家紋の起源は古く[[平安時代]]後期にまで遡る。<!-- [[聖徳太子]]が生きていた --><!-- 奈良時代が始まるのは太子の死後80年後です -->[[奈良時代]]から[[調度]]や[[器物]]には装飾目的として様々な文様が描かれてきたが、[[平安時代]]になると次第に調度品に文様を描くことは視覚的な美しさだけでなく、<!-- [[公家]]([[-->貴族<!--]])といった[[朝廷 (日本)|朝廷]]に仕える人々 -->が各家固有の<!-- 他家と区別する -->目印として使う特色を帯びてきた。そして平安時代[[wikt:末期|末期]]に近づくと、[[西園寺実季]]や[[徳大寺実能]]といった[[公家]]が独自の紋を[[牛車]]の胴に付け都大路でその紋を披露して歩き回り始める。これが家紋の起こりであるという説がある。<!-- [[新井白石]]が「蓋(きぬがさ)」に用いられた紋も家紋の起こりであると自著で記しているが、この説には異説があり結論は出ていない。 --><!-- 自己矛盾しているので、混乱を回避 -->
その後、公家の間で流行し、様々な家紋が生み出されていく。例えば上記の[[西園寺実季]]は「鞘絵」を、[[徳大寺実能]]は「[[木瓜紋|木瓜]]」を、[[菅原氏|菅原一族]]などは梅紋をといった華美な紋を家紋にしている。しかしながら文様の延長線上としての色彩的な意味合いが強く、[[鎌倉時代]]にかけて徐々に、その後の帰属の証明や家紋の意味合いや役割に、発展・変化していった。
[[武家]]<!-- ([[武士]]) -->の家紋は公家よりも遅れ、源平の対立が激化し始めた平安時代末期に生まれる。戦場において自分の働きを証明、また名を残す自己顕示のため各自が考えた固有の図象を旗幕、幔幕にあしらったことが、その始まりであったと考えられている。[[源氏]]が白旗、[[平氏]]が赤旗を戦場での敵味方の区別を付けやすくするための認識性のために掲げた。旗に家紋の原型となる紋章を描くことはなかったが、家来である[[武蔵七党]]である[[児玉党]]は後の児玉の家紋になる「軍配団扇紋」の「唐団扇」を軍旗に描いている<!-- (源平合戦時、党首を勤めていたのは[[庄家長|庄太郎家長]]である) --><!-- 脱線 -->。このことから、武家の家紋も公家と同じく平安時代後期に生まれたと考えられるが、それもわずか数えられるほどで、'''爆発的に普及し始めるのは[[鎌倉時代]]以後となる。'''鎌倉時代[[wikt:中期|中期]]頃にはほとんどの[[武士]]は家紋を持ち、家紋の文化は武家社会に定着していたと考えられている。
<!-- [[承久の乱]]や[[文永・弘安の役]]などの -->本格的な合戦が増えた鎌倉時代には、武士にとって武勲を上げる機会が増えた。そのため必然的に敵味方を区別したり、自身の手柄の確認させたりするための手段が必要となり、幔幕や幟旗、馬標や刀の鞘など、ありとあらゆる物場に家紋が入れられた。<!-- 一種の名刺代わりで、自分の名前を示すために用いらざるを得なかった家紋が武士の間で増えた。また当時や日本古来の武家社会においては、勲功を立てることはすなわち自分が属するお家(イエ)に貢献することに繋がったことも影響している。 --><!-- 重複冗長蛇足 -->
<!-- 鎌倉時代に入ってから武家社会では急速に広まった家紋であったが、 --><!-- 重複 -->公家社会においては武士のように名を上げるために家紋を使用する必要はなかった。そのため[[室町時代]]に入る頃には、ほとんど廃れてしまう。そもそも家を識別するために紋章を使用するという発想は武家のものであり、その存在自体が厳格な[[家格]]の序列に固定化された公家には、そうした紋章をあえて使用する必然性がなかったのである。したがって'''公家の家紋は「武家にならって[[創られた伝統]]」だという側面が強い。'''
=== 南北朝時代 - 室町時代 - 戦国時代 ===
[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に入る頃には、「大紋」といった[[直垂]]に家紋が縫いつけられた衣服が武士の間で普及する。[[室町時代]]頃から、紋章を付けた衣服のことを[[礼服]]と呼ぶようになるが、礼服に<!-- つける紋章には -->必ず家紋をつけるという発想や考えはまだ一般化していなかった。その考えが定着し始めたのは、大紋から発展した「[[素襖]]」や「[[肩衣]]」といった衣服が出始めた室町時代<!-- に入った -->中期の[[東山文化]]が栄えた頃だと言われる。同じ頃、[[羽織]]が生まれた。
<!-- また同じ家族、名字を持つ者同士が家紋を共有し合っていたが、 -->[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に入ると同族同士で戦い合うことも増えた。<!-- 同じ家紋を使用すると -->敵・味方の区別をしやすく<!-- づらくなる不都合を解消 -->するため、この頃から急激に家紋の種類が増え始めた。
同時期、「平紋(ひょうもん)」と呼ばれる2・3色に柄を色分けた家紋が流行した。例えば[[安土桃山時代]]、[[朝鮮]]に出兵した武将・[[加藤清正]]の平紋柄の桔梗を小袖につけている肖像画が、[[京都
=== 江戸時代 ===
[[
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<small>歌舞伎では登場人物の役柄に関わりなく、その役を務める役者の定紋が舞台衣装に大きく染め抜かれることが多い。<br />
画像は[[寛政]]12年([[1800年]])11月。<br />[[江戸]][[中村座]]の顔見世興行で上演された『[[暫|女暫]]』で[[巴御前]]を務める[[瀬川菊之丞|四代目瀬川路考]]、袂には[[濱村屋]]の定紋「結綿(ゆいわた)」。<!-- [[歌川豊国|初代歌川豐國]]画、 [[
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<small>[[香川県]][[東かがわ市]][[引田 (東かがわ市)|引田]]讃州井筒屋敷</small>]]
[[江戸時代]]には、[[武士]]同士による激しい戦はほとんどなくなり、合戦における敵味方の区別のように実用的だった家紋の役割は変化していき、一種の権威の象徴となっていった。
[[士農工商]]という[[身分]]が明確に分けられていた階級社会があった江戸時代では、家紋の用途は相手の[[身分]]や[[家格]]に応じて自分や家族の身なりを正すためであったり、家の格式を他人に示したりする、相手の身分を確認したり示したりするといった[[目的]]に変化した。
また日本では、一般庶民も広く家紋を所有し使用した。[[百姓]]、[[町人]]、そして[[役者]]・[[芸人]]・[[遊女]]などといった社会的には低い階級に位置づけられた者までが、自由に家紋を用いたのである。これは[[貴族]]などごく限られた者しか家の[[紋章]]が許されない[[ヨーロッパ]]各国とは対照的である。
一般的な百姓・町人は[[苗字]]の公称ができなかったが、家紋を用いることは規制されていなかったため、家・一族の標識として機能していった<ref group="注">ちなみに百姓・町人は苗字の公称ができなかっただけであり、私称として代々伝わる苗字を村落内では使用していた例が多い。このことは[[中世]]の村落構造に端を発しており、中世の地侍や乙名百姓は苗字を称した。そして、その配下の名子・被官といった人々も地縁にもとづき支配者と同苗を名乗ることが多かったのである。この苗字とともに家紋も各家に伝わり、[[近世]]には庶民の私称の苗字や家紋として使用されることになったのである。もっとも、このことの裏を返せば、[[家系]]がはっきりしている場合を除いて(特に庶民の場合)、'''家紋と血筋が一致するとは限らないことを表している(高貴な家と家紋が同じであっても、その家に血筋が繋がるとはいえない)。'''</ref>。
さらに江戸時代には、「羽織」や「裃」など礼装・正装の衣服に家紋を入れる慣習が一般化する。[[元禄]][[時代]]に入ると、人々の[[日常生活]]は次第に華やかなものになっていき、家紋を持っていなかった人々も家紋を必要とする機会が生まれ、[[豊臣秀吉]]の吉例によって「'''[[桐紋|五三の桐]]'''」紋が下層庶民に好まれた。また一般の家紋も装飾化され、[[武家]]や庶民が用いる家紋も華美・優美な形に整っていった。そのため、左右や上下対称になった家紋や、丸で囲んだ家紋が増え始めたのはこの時期であると考えられている。
また、[[幕末]]頃[[ヨーロッパ]]では[[ジャポニスム]]として家紋の[[デザイン]]性が評価され、[[アール・ヌーヴォー]]の[[絵画]]などに使用された。
=== 明治時代以降 ===
[[明治]]時代になると欧米文化が流入したが、[[上流階級]]を除き洋装が急速に普及したわけではなく、むしろ身分規制がなくなったことにより庶民が紋服を着用したり、[[墓|墓石]]などに家紋を入れることが増えた。また当時盛んだった国粋主義や家意識の表象として多く用いられた。その一例としてオーダーメイドの[[軍刀]]の柄金具に銀細工で所有者の家紋を入れることがあった。
=== 第二次世界大戦後 - 現在 ===
[[第二次世界大戦]]後は戦中にピークに達した社会的重圧を'''「軍国的」'''・'''「封建的」'''の[[概念]]で否定するようになり、家紋はその表象のひとつとみなされることもあった。また関心が欧米文化に傾倒するに伴って紋服などを着用することが少なくなり、国民の間で家紋は次第に縁遠いものとなっていった。しかしそれでも家紋は、[[2023年]]([[令和]]5年)現在でもほとんどの家に一つは伝えられており、[[冠婚葬祭]]などで着用される礼服には必要不可欠なものになっている。また[[伝統芸能]]や[[老舗]]では
美的な意味において日本の家紋は象徴的なデフォルメとシンプルな構造から、日本国外でも日本の家紋を利用したデザインがしばしば見られる。(???) -->{{clear}}
[[
また、近年では[[シャツ]]や[[ズボン]]、[[ハンカチ]]などに家紋を縫い付けるサービスを行っている服屋も存在する。
== 分類 ==
=== 定紋・代表紋・替紋 ===
「源・平・藤・橘」や[[物部氏|物部]]、[[大伴氏|大伴]]と呼ばれる[[氏族]]の権力が全盛期であった頃、何千という名字が生まれ、その後次第に家紋が用いられ始める。家紋が生まれて間もない鎌倉時代や平安時代は江戸時代の元禄頃とは違い、家紋の種類や形は多くはなかった。そのため、美しく人気のある家紋や描きやすい単純な図案の家紋ほど好まれる傾向にあり、同名字であっても異なる家紋を利用しているケースもあれば、異名字であっても同じ家紋を利用していることがあった。
同じ[[氏族]]の中で比較的多く使われている家紋は'''代表紋'''(だいひょうもん)、または'''表紋'''(おもてもん)といい、その氏族の代表的な家紋として扱われていた。例えば、[[藤原氏]]から分かれた[[藤原長家|長家]]や那須といった支流では、もっとも使用されている家紋の「[[文字|一文字紋]]」を代表紋としている。
また、当時の[[武士]]の間では同名字でも複数の異なる家紋を使用することが一般的であったため、公式に示すための正式な家紋が必要とされた。そういった各個人が決まって用いる家紋のことを'''定紋'''(じょうもん)または「本紋」や「正紋」という。基本的に、諸[[大名]]や[[将軍家]]では定紋を[[嫡子]]だけにしか継がせなかったため、また時代とともに一家系で持ちうる替紋の数が増えるに連れて、定紋の権威や価値や必要性は強まっていった。「'''替紋'''(かえもん・たいもん)」とは、本来の家を示す公式的な家紋である定紋以外の家紋のことである。 替紋は「裏紋」 <gallery>
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=== 通紋 ===
江戸時代に入ると、華美で装飾的な家紋は武士に限らず、庶民にも利用された。そういった少数の家や個人が独占できなくなった家紋のことを「'''通紋'''(つうもん・とおりもん)」という。通紋は、例えば「[[唐花
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=== 神紋・寺紋 ===
[[神社]]や[[寺院|寺]]でも各々に用いる固有の紋があるが、特に家紋と区別してそれらの紋は'''神紋'''(しんもん)や'''寺紋'''(じもん)と呼ばれる。しかし同じように校章といった各[[学校]]における紋章や、[[会社]]など[[社団法人]]には社章も存在するが、家紋の数や種類と比べると圧倒的に少ないため、日本の紋章学者の間では「紋章 = 家紋」という認識が一般的である。
神紋には、各神社にゆかりのある公家・武家の家紋が用いられる他、唐などにおける図案や由緒縁起にまつわる図案など独自の意匠が用いられていることも多い。神職の系統の家系では、神紋が家紋代わりとなっている(
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Marunimitsukashiwa.png|
Japanese crest Suwa Kajinoha(Black background).svg|
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=== 女紋(おんなもん) ===
主に[[畿内]]([[近畿地方]])を中心とした[[西国]]において普及している風習の 1つである。女紋とは実家の家紋とは異なり女系から女系へと伝える紋章のことであり、実家の家紋とは意匠も由緒も異なる。[[近畿地方]]の商家では外部から頻繁に有能な[[入婿]]を迎えて家を継がせる女系相続が行われたため、自然発生的に女系に伝わる紋が生まれたといわれる。特に近畿地方の商家においては「'''家紋が一つしかない家は、[[旧家]]とは言わない'''」ともいい、代々の女紋を持つ家は相当な旧家として敬意を持って遇されることが多い。関東をはじめ近畿以外ではこの風習は希であり、女紋という文化のないところでは婚姻に際し、習慣の違いからしばしば難色を示される場合もあるという('''嫁いだのであるから当家の家紋を用いるべきという理由''')。
家同士の婚姻が主だった時代、女性が嫁ぐ場合に婚家に女紋を持って行く例も見られる。女紋の意匠は主に家紋を基にしているが、輪郭をかたどった「陰(かげ)・中陰(ちゅうかげ)」、「細輪」、「覗き」などやや女性らしいものが多い。女性が留袖に実家の家紋を用いる例が多く見られるが、女紋を継承している場合は女紋で留袖を作る。
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== 家紋のやりとり ==
家紋は度々、人から人へ譲渡の対象になっている。しかし、当時も
例えば、[[皇室]]の家紋である[[菊花紋章]](菊紋)が挙げられる。[[天皇]]は功績のある者へ、例えば[[豊臣秀吉]]などに授けている。またさらに、天皇から授かった[[桐紋]]などを将軍等の有力者が、功績のあった優秀な家臣や家来に授けることがあった。その習慣は[[室町時代]]まで遡り、[[足利義満]]が[[細川頼之]]に自身の家紋を贈紋したことから始まったといわれる。こうした上位の者が下位の者へ家紋を下賜することを'''賜与'''(しよ)といい、授かった家は一家の大名誉として喜んだといわれ、与えられた紋を拝領紋という。
[[室町幕府]]13代将軍[[足利義輝]]が[[織田信長]]の父[[織田信秀]]に桐紋を授け、その後、信長にその桐紋が父から引き継がれた。その桐紋を肩衣につけた信長の肖像画が[[長興寺 (豊田市)|長興寺]]に保存されている。同様の例として[[豊後国|豊後]][[大友氏]]の「抱き杏葉(だき ぎょうよう)」があり、その紋を授かった者を「'''御同紋衆'''」と呼び、重用したという。その逆で、家臣の家紋を主君が用いることを「'''召し上げ'''」といい、家臣である[[本多氏|本多家]]または[[酒井氏|酒井家]]の家紋を主君である[[松平氏|松平家]]が譲り受けたといわれる「'''三つ葉葵'''」の例がある。 ほかに、戦勝者が戦敗者の家紋を奪う「'''奪取'''」の例には、[[龍造寺氏]]が豊後大友氏からの大勝を得た戦勝記念として用いた「抱き杏葉(だき ぎょうよう)」がある。使用者に無断で使用者の関係者を偽ってその家紋を潜用(僭用)することによって移動することもある。 身分の変わらない同格者同士による家紋の譲渡もあったが、家督の相続や、婚姻によるものが大半である。例に、山内上杉氏の[[上杉定実]]と[[養子縁組]]の計画があった[[伊達実元]]に送られた上杉家の定紋である「竹に雀」がある。
131 ⟶ 141行目:
家紋ではないが、主に[[近畿地方]]において家同士の婚姻が主だった折は、女性が嫁ぐ場合に際して、婚家から[[家紋#女紋|女紋]]を持って行く例も見られる。
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== 図案構成 ==
紋には、単独であるもの、輪や角に囲まれているもの、[[文字]]、異種との組み合わせなどがある。それらに関する特定の用語がみられないためここでは書籍に見られる語句と便宜上、仮の名称を使用する。
一つの紋には、身(み)や内(うち)といえる部分と、輪(わ)・枠(わく)や外(そと)といえる部分がある{{sfn|新人物往来社|1999|p={{要ページ番号|date=
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File:Japanese crest tachi Kajinoha(White background).svg|「輪」などがない構成
File:Japanese crest Maru ni tachi Kajinoha(White background).svg|「輪」
File:Mon ogasawara.svg|
File:Japanese Crest kage Daki Gyouyou.svg|
File:Japanese crest Narabi Ya.svg|
File:Take ni Suzume.svg|
File:丸に鷹の割羽.svg|
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== 様々な家紋 ==
[[※]] 以下は、一部の家紋について述べるが、様々な図案については[[家紋の一覧]]にある。
=== 菊紋と桐紋 ===
古くから'''菊紋'''である十六八重菊は[[皇室]]の紋として[[幕府]]や民衆などに広く認識され、'''[[桐紋]]'''である五七桐は菊紋の替紋として使用されていた。皇室に対して功績があった者に対して、[[天皇]]が菊紋や桐紋を下賜されることは度々あり、一説には[[承久の乱]]の際、[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]が[[鎌倉幕府]]倒幕の志士達に対して、愛好していた菊の紋を彫刻した刀を賜与されたことが発端ともいわれている。後に[[足利尊氏]]や[[豊臣秀吉]]なども菊紋や桐紋を授かったという事例がある。菊紋を授かることは名誉かつ光栄なことであったが、主に下賜された家紋は替紋とされていた桐紋といわれ、天皇より任命された[[摂政]]・[[関白]]・[[征夷大将軍]]・[[太政大臣]]など統治者らは統治者の行う政策などに於いて功績を残した家来や[[大名]]などに、桐紋を贈与することもあったという。[[皇族]]の家紋である菊紋や桐紋の権威は増して厳格になり、[[1591年]](天正19年)、[[1595年]]([[文禄]]4年)には、[[豊臣秀吉]]が菊紋や桐紋の無断使用を禁止する規制を布くほどであった。
==== 菊紋 ====
[[ファイル:Japanese Emblem Jyuurokukiku.png|thumb|150px|<span style="font-size:70%">じゅうろくきく</span><br />十六菊]]▼
{{see also|菊花紋章}}
▲[[
[[豊臣政権]]から[[徳川氏]]の政権である[[江戸幕府]]に交代してからは次第に禁止令は緩まり、また江戸幕府は自己の権威を京の[[朝廷 (日本)|朝廷]]の上に置こうとしていた傾向から、同様の菊紋は[[仏具]]の金具・[[彫刻]]や[[和菓子]]の造形、または[[暖簾]]の図柄に用いられるなど、一般人への使用・普及に拍車を掛けた。
その後、明治時代に入ると天皇の権威の復活により菊紋の権威復活が図られるようになり、1869年([[明治元年]])には[[神社]]や[[寺院|仏閣]]で使用されていた菊紋が一部を除いて原則として禁止となり、[[1871年]]([[明治4年]])には皇室の十六八重菊の皇室以外の使用は禁じられた。そのため徐々に菊紋の権威が復活していくことになる。この菊と葵の立場が再逆転した状況をして「菊は栄える。葵は枯れる」と謳われた。
その後、明治新政府になると皇室の十六八重菊の皇室以外の使用は全面的に禁じられる。[[宮家|親王家]]も使用規制の対象になり、[[八幡]]や[[泉涌寺]]といった皇室ゆかりの[[神社]]や[[仏閣]]に対しても規制が行われ、徐々に皇室の菊紋の権威は復活していくことになる。現在、天皇と皇室の御紋である「十六八重[[キク|菊]]」が[[慣習法]]上の[[国章]]の扱いを受けている。十六八重菊に意匠的には似ている十六菊は、日本国の発行する[[パスポート]]や議員バッジなどのデザインとして取り入れられている。今のところ日本では特定の菊紋を国章とする法令はない。[[商標法]]第 4条第 1項第 1号には「'''国旗、菊花紋章、勲章、褒章又は外国の国旗と同一又は類似の商標'''」について、商標登録要件を満たさないと定められている。▼
その後[[1879年]]([[明治]]12年)の太政官達23号などで徐々に社殿の装飾などへの使用が認められていくようになった。
==== 桐紋 ====▼
▲
[[ファイル:Emblem of the Prime Minister of Japan.svg|thumb|150px|<span style="font-size:70%">ないかくそうりだいじんもんしょう</span><br />[[内閣総理大臣]][[紋章]]]]▼
▲==== 桐紋 ====
▲[[
{{see also|桐紋}}
桐紋が皇室
明治政府が建てられ、菊紋の法的規制が布かれる中、'''桐紋については、菊紋と同じような法的規制などの対処は採られなかった。'''室町から続く[[将軍家]]の家来に対する桐紋の譲渡が頻繁にあり、家の家紋として使用している者もいたため、それを配慮したためだと考えられている。
しかしながら、権威が失墜したわけではなく、'''五七桐'''が[[内閣]]・政府の紋章として官記や辞令書の用紙などに慣例的に用いられ、最近では、日本国外において日本の[[内閣総理大臣]]の紋章として定着しつつある。 桐紋はもともと政府を表す紋章としての性格があり、[[小判]]などの江戸時代の[[貨幣]]や明治以降の貨幣、[[日本政府]]が発行する現在の最高額硬貨である[[五百円硬貨]]にもその刻印がある([[日本銀行券]](紙幣)は[[日本銀行]]が発券)。 == 家紋由来のシンボルマーク ==
企業や[[地方公共団体]]の[[シンボルマーク]]や旗章にも[[伝統|伝統的]]な家紋を利用したデザインのものが見られる。たいていは、企業であれば創業家やパトロンの家紋、[[地方公共団体]]であれば、その地に縁の深い人物
# 家紋そのものを、" ほぼそのままの形でシンボルマークにする
# 家紋を" デザインの一部 "として取り入れる
# 家紋を元に新しいデザインを作る
などの形で利用される。
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=== 参考文献 ===
{{脚注の不足|date=
* {{Cite journal|和書|author
* {{Cite|和書|author = 京都紋章工芸協同組合|title = 平安紋鑑|date = 2004|publisher = 京都紋章工芸協同組合平安紋鑑刊行部, 森晴進堂|edition = 改訂版, 増補縮刷||isbn = 4990151305|ref = harv}}
* {{Cite|和書|author = 新人物往来社|authorlink = 新人物往来社|title = 索引で自由に探せる 家紋大図鑑|date = 1999|publisher = 新人物往来社|isbn = 4-404-02728-1|series = 別冊歴史読本28号|ref = harv}}
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== 関連項目 ==
* [[太平記]]▼
* [[家紋の一覧]]
* [[
* [[日本家紋研究会]]
* [[馬印|旗印]]▼
* [[紋章]]
▲* [[太平記]]
▲* [[馬印|旗印]]
* [[アイシロシ]]
== 外部リンク ==
{{commonscat|Mon (emblem)}}
* [http://www.nihonkamon.com/ 日本家紋研究会 公式サイト] {{ja icon}} - 出版経験のある家紋研究家が多く所属する研究会。
* [http://blog.livedoor.jp/kiseki612/ 家紋の真実] {{ja icon}} - 家紋研究(日本家紋研究会)
* [http://www.harimaya.com/kamon/ 家紋World] {{ja icon}} - 家紋の由来のほか、名字から自分の家紋の検索ができる。
* [http://
* [http://
{{DEFAULTSORT:かもん}}
|