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=== 平安時代 - 鎌倉時代 ===
家紋の起源は古く[[平安時代]]後期にまで遡る。<!-- [[聖徳太子]]が生きていた --><!-- 奈良時代が始まるのは太子の死後80年後です -->[[奈良時代]]から[[調度]]や[[器物]]には装飾目的として様々な文様が描かれてきたが、[[平安時代]]になると次第に調度品に文様を描くことは視覚的な美しさだけでなく、<!-- [[公家]]([[-->貴族<!--]])といった[[朝廷 (日本)|朝廷]]に仕える人々 -->が各家固有の<!-- 他家と区別する -->目印として使う特色を帯びてきた。そして平安時代[[wikt:末期|末期]]に近づくと、[[西園寺実季]]や[[徳大寺実能]]といった[[公家]]が独自の紋を[[牛車]]の胴に付け都大路でその紋を披露して歩き回り始める。これが家紋の起こりであるという説がある。<!-- [[新井白石]]が「蓋(きぬがさ)」に用いられた紋も家紋の起こりであると自著で記しているが、この説には異説があり結論は出ていない。 --><!-- 自己矛盾しているので、混乱を回避 -->
 
その後、公家の間で流行し、様々な家紋が生み出されていく。例えば上記の[[西園寺実季]]は「鞘絵」を、[[徳大寺実能]]は「[[木瓜紋|木瓜]]」を、[[菅原氏|菅原一族]]などは梅紋をといった華美な紋を家紋にしている。しかしながら文様の延長線上としての色彩的な意味合いが強く、[[鎌倉時代]]にかけて徐々に、その後の帰属の証明や家紋の意味合いや役割に、発展・変化していった。
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{{see also|菊花紋章}}
[[File:Japanese Emblem Jyuurokukiku.png|thumb|180px|{{ruby|十六菊|じゅうろくきく}}]]
[[豊臣政権]]から[[徳川氏]]の政権である[[江戸幕府]]に交代してからは次第に禁止令は緩まり、また江戸幕府は自己の権威を京の[[朝廷 (日本)|朝廷]]の上に置こうとしていた傾向から、同様の菊紋は[[仏具]]の金具・[[彫刻]]や[[和菓子]]の造形、または[[暖簾]]の図柄に用いられるなど、一般人への使用・普及に拍車を掛けた。菊紋の権威が毀損されていく一方、徳川氏の家紋である葵紋の使用は厳格に禁止することで、その権威を高めた。
 
その後、明治時代に入ると天皇の権威の復活により菊紋の権威復活が図られるようになり、1869年([[明治元年]])には[[神社]]や[[寺院|仏閣]]で使用されていた菊紋が一部を除いて原則として禁止となり、[[1871年]]([[明治4年]])には皇室の十六八重菊の皇室以外の使用は禁じられた。そのため徐々に菊紋の権威が復活していくことになる。この菊と葵の立場が再逆転した状況をして「菊は栄える。葵は枯れる」と謳われた。