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{{参照方法|date=2009年5月}}
[[File:Greater Mongolia (orthographic projection).png|thumb|蒙古]]
'''蒙古'''(もうこ)は、[[モンゴル高原]]に居住する[[遊牧民]]や、彼らが居住する地域についての自称[[モンゴル]]に対する、[[中国語]]による音写の一種。[[鎌倉時代]]では、「もうこ」とともに「むくり」や「むこ」などとも呼んでいた。
 
地域名称としては、おおむね[[モンゴル|モンゴル人]]の居住する[[シベリア]]と[[万里の長城]]の間に位置する「[[モンゴル高原]]」を指す呼称で、[[]]代には[[外モンゴル|外蒙古]](現[[モンゴル国]])と[[内モンゴル自治区|内蒙古]]に大別されているが([[華人民共和]]では「内蒙古」が現行の自治区名として使用続行中)、[[中華民国]]の一時期には、[[ボグド・ハーン政権|ジェプツンタンパ政権]][[自治モンゴル]]や[[モンゴル人民共和国]]の実効支配部分(旧・外蒙古)部分のみをす地域名称としても使用された。
 
{{Citation needed|date=2022年10月|範囲=蒙古には「おろかで古い」という悪い意味合いがある[[漢民族]]による蔑称であるとして}}、[[日本]]ではモンゴル人たちからはと日本人の合同署名による広告活動で、使用をやめるように運動が起きている。しかしながら[[元寇]]を指す「蒙古襲来」や[[蒙古斑]]など、定着している表現もある。
<ref name="mouko">{{Cite book|和書
|author=及川俊信
|title=「報告 文化広告活動 私たちはこれからも、モンゴルを『蒙古』と呼びません」
|origdate=2008-03-31
|publisher=社団法人日本モンゴル協会
|series=日本とモンゴル
|edition=No.116
|pages=pp. 137-143
}}</ref>
。しかしながら[[元寇]]を指す「蒙古襲来」や[[蒙古斑]]など、定着している表現もある。
 
== 歴史 ==
=== 「蒙古」という語彙の出現と用例 ===
モンゴルが歴史の舞台に姿を現すのは[[7世紀]]に[[室韋]]の一派としてである。当時は「萌古」「蒙兀」「蒙瓦」などとも音写されていた。東の[[タタル部]]とは室韋を同祖とする部族であった。
 
[[1271年]]に[[金 (王朝)|金]]を滅ぼすと、[[国号]]を漢民族による蔑称である蒙古から[[元 (王朝)|元]](大元ウルス)へと変更した。元の北走の後、[[北元]]のチンギス統が途切れるとモンゴルは[[タタール|韃靼]]と呼ばれることになり、西に[[オイラト|オイラート]]が分裂した。その後[[清|清朝]]の国初より[[乾隆]]期にかけて旧[[韃靼]]と旧[[オイラト]]のほぼ全部族が清朝の支配下に入り、全部族が再び蒙古の名で総称されるようになった。
{{節スタブ}}
モンゴルが歴史の舞台に姿を現すのは[[7世紀]]に[[室韋]]の一派としてである。当時は「萌古」「蒙兀」「蒙瓦」などとも音写されていた。
 
=== [[清|清朝]]期における「蒙古」への行政区分と「蒙古人」の分布 ===
[[1271年]]に[[金 (王朝)|金]]を滅ぼすと国号を漢民族による蔑称である蒙古から[[元 (王朝)|元]](大元ウルス)へと変更した。元の北走の後、[[北元]]のチンギス統が途切れるとモンゴルは[[タタール|韃靼]]と呼ばれることになり、西に[[オイラト|オイラート]]が分裂した。その後[[清|清朝]]の国初より[[乾隆]]期にかけて旧[[韃靼]]と旧[[オイラト]]のほぼ全部族が清朝の支配下に入り、全部族が再び蒙古の名で総称されるようになった。
清朝はモンゴル人を以下の三形態によって組織した。
 
#[[蒙古八旗]]--モンゴル人のうち、早期に清朝に複属し、清朝の支配構造の最上位に位置する[[旗人]]([[八旗]])に編成された人々。首都[[北京]]の[[内城]]と、主要な地方都市に配置された[[駐防八旗]]の[[駐屯地]]に配置された。<br>
=== [[清|清朝]]期における「蒙古」への行政区分と「蒙古人」の分布 ===
#[[内属蒙古]]--モンゴルの諸部族のうち、[[チンギス・ハン]]または[[アルタン・ハン]]の直径子孫からなる世襲の部族長が廃止され、清朝皇帝の直轄下に置かれた[[チャハル部]](現[[河北省]]のうち、[[万里の長城]]の北側に位置する地域)および[[帰化城トメト部]]([[フフホト]]の周辺)の2部族。[[オイラト]]の諸部族([[ホブド]]の周辺)。
{{節スタブ}}
#[[外藩蒙古]]---[[ゴビ砂漠]]の南北に分布する「漠北蒙古」(「[[外蒙古]]」)「漠南蒙古」(「[[内蒙古]]」)、今日の「[[新疆]]」・「[[青海]]」などに居住し、清朝より[[盟旗制度]]によって編成された全てのモンゴル貴族とその領民。
 
=== 中華民国における「蒙古」 ===
[[辛亥革命]]以後、全モンゴルの独立をめざ目指[[ジェプツンタンパ政権]]との軍事衝突は、[[モンゴル国|北モンゴル]](旧・外蒙古)を[[ジェプツンタンパ政権]]が、[[内モンゴル自治区|南モンゴル]](内蒙古)を民国側が掌握するという形で一応の終息をた。さらに[[キャフタ会議]]を経て締結された[[キャフタ協定]]により、南モンゴルは中国政府の統治下に、北モンゴルは[[ジェプツンタンパ政権]]のもと、中国の[[宗主国|宗主権]]下の[[自治]]地域と位置づけられることになった。
 
===北京政府時期 (1912-1928) ===
中華民国の実効支配が及んだ南モンゴル(内蒙古)では、[[モンゴル|モンゴル人]]に対しては[[清|清朝]]期以来の[[盟旗制]]が引き続き行われたが、[[漢民族|漢人]]が多数入植した地域を中心に[[州県制]]も行われ、また将来の[[省 (行政区分)|省]]制施行への前段階としていくつかに分割され、三つの[[特別区 (中華民国)|特別区]]と隣接する省へ併合される地域とに分割された。
:[[フルンボイル市|ホロンバイル盟]]→[[黒竜江省]]に併合
:[[通遼市|ジェリム盟]](哲里木盟)→[[吉林省]]に併合
:[[赤峰市|ショー・ウダ盟]](昭烏達盟)→[[熱河省|熱河特別区]]
:[[チャハル]]盟(察哈爾盟)→[[察哈爾省|察哈爾特別区]]
:[[ウランチャブ市|ウラーン・チャプ盟]](烏蘭察布盟)・[[オルドス市|イヘ・ジョー盟]](伊克昭盟)→[[綏遠省|綏遠特別区]]
 
=== 北京政府時期(1912年 (1912- 1928)年) ===
3特別区では、様々な職掌を司る「○○庁長」がおかれたが、特別区の長官「都統」、副長官「鎮守使」、「道尹」など清朝以来の官職名を引き継ぐ呼称が使用されていた。
中華民国の実効支配が及んだ南モンゴル(内蒙古)では、[[モンゴル|モンゴル人]]に対しては[[清|清朝]]期以来の[[盟旗制]]が引き続き行われたが、[[漢民族|漢人]]が多数入植した地域を中心に[[州県制]]も行われ、また将来の[[省 (行政区分)|省]]制施行への前段階としていくつかに分割され、3つの[[特別区 (中華民国)|特別区]]と隣接する省へ併合される地域とに分割された。
:* [[フルンボイル市|ホロフルイル盟]](呼倫貝爾盟)→[[黒竜江省]]に併合
:* [[通遼市|ジェリム盟]](哲里木盟)→[[吉林省]]に併合
:* [[赤峰市|ョー・ウダ盟]](昭烏達盟)→[[熱河省 (中華民国)|熱河特別区]]
:* [[チャハル]]盟(察哈爾盟)→[[察哈爾省|察哈爾特別区]]
:* [[ウランチャブ市|ウラチャ盟]](烏蘭察布盟)・[[オルドス市|イ・ジョー盟]](伊克昭盟)→[[綏遠省|綏遠特別区]]
 
3特別区では、様々な職掌を司る「○○庁長」がかれたが、特別区の長官「都統」、副長官「鎮守使」、「道尹」など清朝以来の官職名を引き継ぐ呼称が使用されていた。
[[ジェプツンタンパ政権]]が実効支配する旧外蒙古の区域に対しても、「中国に帰属する証」として、清朝時代の官職名をほとんどそのまま受け継いだ以下のようなポストが維持され続けた。
 
[[ジェプツンタンパ政権]]が実効支配する旧外蒙古の区域に対しても、「中国に帰属する証」として、清朝時代の官職名をほとんどそのまま受け継いだ以下のようなポストが維持され続けた。
*庫倫辧事大員 (1915-1920) 、庫倫参賛 (1920-1922) - 現在の[[ウランバートル]]
*科布多参賛 (1912、1920-1922) 、科布多佐理員 (1915-1920) 、
*烏理雅蘇台将軍 (1912) 、烏理雅蘇台佐理員 (1915-1920) 、烏理雅蘇台参賛 (1920-1922) - [[ウリャスタイ]]
*恰克圖佐理員 (1915-1920) 、恰克圖民政長 (1920-1922)
*唐努烏梁海参賛 (1919-1922) - [[タンヌ・ウリャンハイ]]
 
* 庫倫事大員 (臣([[1915年]] -1920) [[1920年]])、庫倫参賛(1920年 (1920-1922) [[1922年]]) - 現在の[[ウランバートル]]
*阿爾泰辧事長官 (1912-1919) →新疆省に移管、阿山道尹と改称
* 科布多参賛 (([[1912年]]、1920-1922) 1922年)、科布多佐理員(1915年 (1915- 1920) 、年)
*塔爾巴哈台泰参賛 (1912-1916) →新疆省に移管、塔城道尹と改称
* 烏理雅蘇台将軍 (1912) (1912年)、烏理雅蘇台佐理員(1915年 (1915- 1920) 年)、烏理雅蘇台参賛(1920年 (1920- 1922) 年) - [[ウリャスタイ]]
* 恰克佐理員(1915年 (1915-1920) 1920年)、恰克民政長(1920年 (1920- 1922)年)
* 唐努烏梁海参賛 (([[1919年]] -1922) 1922年) - [[タンヌ・ウリャンイ]]
* 阿爾泰長官大臣(1912年 (1912-1919) 1919年)→新疆省に移管、阿山道尹と改称
* 塔爾巴哈台泰参賛(1912年 (1912-1916) [[1916年]])→新疆省に移管、塔城道尹と改称
 
1919- 1922年にかけて、民国政府が旧・外蒙古を軍事制圧し、一時的に実効支配権を行使した時期があった。1920年における各ポストの改称はこれに対応したものである。この時の行政・軍事を握る[[徐樹錚]]が帯びた3職の名が「西北籌備辺使 兼 西北辺防司令 督外蒙善後事宜」である。後任の[[陳毅 (民国)|陳毅]]、[[李垣]]らの職名は「庫烏科唐鎮撫使」である。これらの諸ポストは1922年、[[モンゴル人民革命党]]政権による中国の軍事・行政機関の一掃にともない、名目上の後任が任命されることなく消滅した。
 
=== 国民政府時期(1927年 (1927- 1949)年) ===
[[ソビエト連邦]]の支援をけて改組された[[中国国民党]]は、[[1924年]]に開催した「国民党一回大会」で「中国国内の各民族の自決権を承認」していたこともあり、同党が[[北伐 (中国国民党)|北伐]]を成功させて樹立した[[国民政府]]では、[[モンゴル人民共和国]]領の統治を職掌とするような名目的・形式的ポストは設置されなかった。
 
国民政府の統治下に入った南モンゴル(内蒙古)では、[[1928年]]3つの特別区に省制が施行された。
* 熱河特別区 → [[熱河省 (中華民国)|熱河省]]
* 察哈爾特別区 → [[察哈爾省]]
* 綏遠特別区 → [[綏遠省]]
 
南モンゴルのモンゴル人は引き続き清朝・北京政府以来の[[盟旗制]]により組織されており、各省による「内地化」に抵抗、モンゴル人によるモンゴル統治をめざ目指す「自治運動」を展開した。これに応じて国民党は[[1934年]]「[[蒙古自治方案]]」を通達することを決議、南モンゴルの自治運動のリーダーたちをトップに据え、南モンゴルの盟旗を横断的に組織した[[蒙古地方自治政努委員会]]、[[蒙古地方自治指導長官公署]]等が設置された。
 
[[1936年]]、南モンゴル人は、国民政府の支配から離脱した[[蒙古軍司令部]](同年[[蒙古軍政府]]に改組)を樹立、[[1937年]]の[[日中戦争]]の勃発にともな[[日本]]の支援をけつつ[[蒙古聯盟自治政府]]を組織、その後各種改組をて[[蒙古聯合自治政府|蒙古自治邦]] (([[1941年]] -1945) [[1945年]])が成立した。熱河以東の[[東部内蒙古]]は[[満州国|満洲国]]にまれ、また[[アルシャー盟]]は国民政府の支配下にあったため、この「自治邦」の管轄領域は内蒙古の一部を占めるにぎなかった。
 
=== 中華民国における「蒙古」と「蒙古地方」の用法 ===
中華民国の行政区画では、内蒙古をモンゴルより切り離して「[[中国本土|内地]]」に組み込んだ結果、中華民国期には、蒙古が旧・外蒙古の区域だけを指す地域名称として使用されることになった。中国の統治下にとどまった「内蒙古」の各地方は、国民政府時期、まとめて「[[蒙古地方]]」とよばれた(前節参照)。
 
:例えば[[国民政府]]のもとで成立した[[中華民国憲法]]には、以下のような用例がある。
::第九十一条  監察院設監察委員由各省、市議會蒙古、西藏地方議會及華僑團體選舉之。其名額分配依左列之規定
::日本語訳)第九一条  監察院は監察委員を設け、各省・市議会、蒙古・西蔵地方の議会及び華僑団体がこれを選挙する。 その定数の分配は、次の規定による。
:::一 各省5
:::二 各直轄市2
:::三 蒙古各盟旗合計8
:::四 西蔵8
:::五 国外居留の国民8人 ([http://www.roc-taiwan.or.jp/law/law9.html 台北駐日経済文化代表処]」訳)
 
中華民国の行政区画では、「内蒙古」の各地方は「各省」に分割または併合されたので、「内蒙古」という呼称の地域単位は存在しない。上引の「蒙古」は現[[モンゴル国]](旧・外蒙古)部分のみをす。
 
=== 中華人民共和国における「蒙古」の用法 ===
中国では現在、行政区分としての内蒙古自治区と、民族名としての蒙古族、言語としての蒙古語などに「蒙古」が用いられている。一応、「蒙」は四声の違いにより、悪い意味を有する「蒙」とモンゴルを意味する「蒙」が区別されている。モンゴル国は公式には「蒙古国」と表記するが、一般には「外蒙古」の呼称が用いられることが多い。
 
==脚注==
== 日本での「蒙古」表現 ==
{{Reflist}}
青森県に伝わる『津軽の子守唄』には、以下のような一節がある。
:泣けば山からもっこ来るね 泣かねば浜からじょじょ(魚)来るね 寝にゃや寝にゃや
この歌詞に於ける「もっこ」(地域によっては「もっこぁ」など発音の変化あり)は鬼のような意味で使われているが、元々は蒙古を指し、[[元寇]]の伝承をとどめているとされる。この『津軽の子守唄』は1983年にNHK[[名曲アルバム]]で[[管弦楽法|オーケストレーション]]された上で放送され、その中のテロップで元寇のエピソードが紹介された。
 
== 参考文献 ==
* 『中華民国時期軍政職官誌』(上下, 郭卿友主編, 蘭州・甘粛民族出版社1990, ISBN 7-226-00582-4)
* 『民国職官年表』(劉壽林・萬仁元・王玉文・孔慶泰編, 北京・中華書局1995, ISBN 7-101-01320-1)
 
== 関連項目 ==
* [[西蔵]] - [[雍正のチベット分割]] (([[1725年]] - 32) [[1732年]])以降、[[チベット]]の西南部2分の1程度を占める地域に対してされた中国語の呼称、地域概念。現在の[[チベット自治区|西蔵自治区]](チベット自治区)の領域ともほぼ一致。
* [[西蔵地方]] - 中華民国の歴代政権および中華人民共和国が「西蔵」とともに「中国の一地方」の呼称として使用。とりわけ「チベット独立」の主張に対して、特に「西蔵が中国の一部分」であることを強調するために使用された用語。
* [[蒙古地方]] - [[清|清朝]]期の[[モンゴル]]の総称。中華民国期、内蒙古各地が隣接する[[省 (行政区分)|諸省]]まれ、もしくは独自に建省されて「[[内地]]」に組み込まれた一方で、旧態依然としている旧・外蒙古を指した行政区域名。
* [[新疆ウイグル自治区|新疆]] - [[乾隆帝]]の[[ジュンガル平定]]により清の領土となった[[東トルキスタン]]。
* [[新疆省]] - [[ヤクブ・ベク]]の反乱の結果、[[1884年]]以降省制が敷かれた新疆。
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{{DEFAULTSORT:もうこ}}
[[Category:モンゴルの歴史]]
[[Category:中国の歴の民族]]
[[id:Mongolia (wilayah)]]
[[mk:Голема Монголија]]
[[mn:Монголын тал хээр]]
[[vi:Đại Mông Cổ]]
[[wuu:蒙古简介]]
[[zh:蒙古高原]]