削除された内容 追加された内容
m ボット: 言語間リンク 5 件をウィキデータ上の d:q3875368 に転記
m 曖昧さ回避ページ熱河省へのリンクを解消、リンク先を熱河省 (中華民国)に変更; リンク先を熱河省 (中華民国)に変更(DisamAssist使用)
 
(13人の利用者による、間の18版が非表示)
3行目:
'''蒙古'''(もうこ)は、[[モンゴル高原]]に居住する[[遊牧民]]や、彼らが居住する地域についての自称[[モンゴル]]に対する、[[中国語]]による音写の一種。[[鎌倉時代]]では、「もうこ」と共に「むくり」や「むこ」などとも呼んでいた。
 
地域名称としては、おおむね[[モンゴル|モンゴル人]]の居住する[[シベリア]]と[[万里の長城]]の間に位置する「モンゴル高原」を指す呼称で、[[清]]代には[[外モンゴル|外蒙古]](現[[モンゴル国]])と[[内モンゴル自治区|内蒙古]]に大別されているが([[中華人民共和国]]では「内蒙古」が現行の自治区名として使用続行中)、[[中華民国]]の一時期には、[[ボグド・ハーン政権|ジェプツンタンパ政権]][[自治モンゴル]]や[[モンゴル人民共和国]]の実効支配部分(旧・外蒙古)部分のみを指す地域名称としても使用された。
 
{{Citation needed|date=2022年10月|範囲=蒙古には「おろかで古い」という悪い意味合いがある[[漢民族]]による蔑称であるとして}}、[[日本]]ではモンゴル人と日本人の合同署名による広告活動で、使用をやめるように運動が起きている
<ref name="mouko">{{Cite book|和書
|author=及川俊信
19行目:
== 歴史 ==
=== 「蒙古」という語彙の出現と用例 ===
モンゴルが歴史の舞台に姿を現すのは[[7世紀]]に[[室韋]]の一派としてである。当時は「萌古」「蒙兀」「蒙瓦」などとも音写されていた。東の[[タタル部]]とは室韋を同祖とする部族であった。
 
[[1271年]]に[[金 (王朝)|金]]を滅ぼすと、[[国号]]を漢民族による蔑称である蒙古から[[元 (王朝)|元]](大元ウルス)へと変更した。元の北走の後、[[北元]]のチンギス統が途切れるとモンゴルは[[タタール|韃靼]]と呼ばれることになり、西に[[オイラト]]が分裂した。その後清朝の国初より[[乾隆]]期にかけて旧韃靼と旧オイラトのほぼ全部族が清朝の支配下に入り、全部族が再び蒙古の名で総称されるようになった。
{{節stubスタブ}}
 
=== 清朝期における「蒙古」への行政区分と「蒙古人」の分布 ===
清朝はモンゴル人を以下の三形態によって組織した。
{{節stub}}
#[[蒙古八旗]]--モンゴル人のうち、早期に清朝に複属し、清朝の支配構造の最上位に位置する[[旗人]]([[八旗]])に編成された人々。首都[[北京]]の[[内城]]と、主要な地方都市に配置された[[駐防八旗]]の[[駐屯地]]に配置された。<br>
#[[内属蒙古]]--モンゴルの諸部族のうち、[[チンギス・ハン]]または[[アルタン・ハン]]の直径子孫からなる世襲の部族長が廃止され、清朝皇帝の直轄下に置かれた[[チャハル部]](現[[河北省]]のうち、[[万里の長城]]の北側に位置する地域)および[[帰化城トメト部]]([[フフホト]]の周辺)の2部族。[[オイラト]]の諸部族([[ホブド]]の周辺)。
#[[外藩蒙古]]---[[ゴビ砂漠]]の南北に分布する「漠北蒙古」(「[[外蒙古]]」)「漠南蒙古」(「[[内蒙古]]」)、今日の「[[新疆]]」・「[[青海]]」などに居住し、清朝より[[盟旗制度]]によって編成された全てのモンゴル貴族とその領民。
 
=== 中華民国における「蒙古」 ===
32 ⟶ 35行目:
=== 北京政府時期(1912年 - 1928年) ===
中華民国の実効支配が及んだ南モンゴル(内蒙古)では、モンゴル人に対しては清朝期以来の[[盟旗制]]が引き続き行われたが、漢人が多数入植した地域を中心に[[州県制]]も行われ、また将来の[[省 (行政区分)|省]]制施行への前段階としていくつかに分割され、3つの[[特別区 (中華民国)|特別区]]と隣接する省へ併合される地域とに分割された。
* [[フルンボイル市|ホロフルイル盟]](呼倫貝爾盟)→[[黒竜江省]]に併合
* [[通遼市|ジェリム盟]](哲里木盟)→[[吉林省]]に併合
* [[赤峰市|ョー・ウダ盟]](昭烏達盟)→[[熱河省 (中華民国)|熱河特別区]]
* [[チャハル]]盟(察哈爾盟)→[[察哈爾省|察哈爾特別区]]
* [[ウランチャブ市|ウラチャ盟]](烏蘭察布盟)・[[オルドス市|イ・ジョー盟]](伊克昭盟)→[[綏遠省|綏遠特別区]]
 
3特別区では、様々な職掌を司る「○○庁長」が置かれたが、特別区の長官「都統」、副長官「鎮守使」、「道尹」など清朝以来の官職名を引き継ぐ呼称が使用されていた。
42 ⟶ 45行目:
ジェプツンタンパ政権が実効支配する旧外蒙古の区域に対しても、「中国に帰属する証」として、清朝時代の官職名をほとんどそのまま受け継いだ以下のようなポストが維持され続けた。
 
* 庫倫事大([[1915年]] - [[1920年]])、庫倫参賛(1920年 - [[1922年]]) - 現在の[[ウランバートル]]
* 科布多参賛([[1912年]]、1920年 - 1922年)、科布多佐理員(1915年 - 1920年)
* 烏理雅蘇台将軍(1912年)、烏理雅蘇台佐理員(1915年 - 1920年)、烏理雅蘇台参賛(1920年 - 1922年) - [[ウリャスタイ]]
* 恰克佐理員(1915年 - 1920年)、恰克民政長(1920年 - 1922年)
* 唐努烏梁海参賛([[1919年]] - 1922年) - [[タンヌ・ウリャンイ]]
* 阿爾泰長官大臣(1912年 - 1919年)→新疆省に移管、阿山道尹と改称
* 塔爾巴哈台泰参賛(1912年 - [[1916年]])→新疆省に移管、塔城道尹と改称
 
1919年 - 1922年にかけて、民国政府が旧・外蒙古を軍事制圧し、一時的に実効支配権を行使した時期があった。1920年における各ポストの改称はこれに対応したものである。この時の行政・軍事を握る[[徐樹錚]]が帯びた3職の名が「西北籌備辺使 兼 西北辺防司令 督外蒙善後事宜」である。後任の[[陳毅 (民国)|陳毅]]、[[李垣]]らの職名は「庫烏科唐鎮撫使」である。これらの諸ポストは1922年、[[モンゴル人民革命党]]政権による中国の軍事・行政機関の一掃に伴い、名目上の後任が任命されることなく消滅した。
 
=== 国民政府時期(1927年 - 1949年) ===
[[ソビエト連邦]]の支援を受けて改組された[[中国国民党]]は、[[1924年]]に開催した「国民党一回大会」で「中国国内の各民族の自決権を承認」していたこともあり、同党が[[北伐 (中国国民党)|北伐]]を成功させて樹立した[[国民政府]]では、[[モンゴル人民共和国]]領の統治を職掌とするような名目的・形式的ポストは設置されなかった。
 
国民政府の統治下に入った南モンゴル(内蒙古)では、[[1928年]]、3つの特別区に省制が施行された。
* 熱河特別区 → [[熱河省 (中華民国)|熱河省]]
* 察哈爾特別区 → [[察哈爾省]]
* 綏遠特別区 → [[綏遠省]]
98 ⟶ 101行目:
[[Category:モンゴルの歴史]]
[[Category:中国史の民族]]
[[en:Greater Mongolia]]
[[id:Mongolia (wilayah)]]
[[mk:Голема Монголија]]