佐藤愛麿
佐藤 愛麿(さとう あいまろ(よしまろ)、1857年4月22日〈安政4年3月28日〉 - 1934年〈昭和9年〉1月12日、満76歳没)は、日本のメソジスト派牧師、外交官(特命全権大使)、宮中顧問官。
経歴
編集弘前藩家老山中逸郎泰靖の次男として生まれる。幼名は次郎。勘定奉行佐藤清衡の養子になり、20歳の時に愛麿と改名。
1875年(明治8年)ジョン・イングより洗礼を受け、弘前バンドの一人として伝道に従事。東奥義塾創設と同時に入学し、弘前公会の設立に参画した。
1876年(明治9年)に菊池九郎、本多庸一、イングに引率されて、東北巡幸中の明治天皇に謁見し、珍田捨巳、伊東重らと共に英文演説を奉呈した。
1877年(明治10年)イングの紹介で、珍田捨巳らとともにアメリカのインディアナ・アスベリー大学(現・デポー大学)に留学し、Bachelor of Arts 及び Master of Philosophy を取得[1]。1881年(明治14年)10月に帰国後、美会神学校(後の青山学院)教授となり、ジュボンの論理学とロスコーの小化学書を講じた[2]。
1882年(明治15年)より外務省に判任御用掛として出仕[3]。1886年(明治19年)3月、正式に公使館書記官に任用され、電信課長を務めた[4]。1888年(明治21年)より在ワシントン公使館、次いで1891年(明治24年)より在ロンドン公使館へ赴任。1893年(明治26年)帰国後に外務書記官に任じられ、大臣官房庶務課長及び秘書課兼勤、さらに庶務課長兼翻訳課長を被命[5]。1896年(明治29年)公使館一等書記官に任じられ、在フランス公使館へ赴任[6]。
1900年(明治33年)10月には弁理公使兼総領事に昇任し、同年より1902年(明治35年)末までメキシコ兼ペルー駐箚[7]。以後、待命となり本省臨時勤務となったが、日露戦争中の1904年(明治37年)11–12月、アメリカでのセントルイス万国博覧会に派遣された伏見宮貞愛親王(陸軍大将)に別当心得として随行[8][9]。1905年(明治38年)7月には日露講和会議のためアメリカへ派遣された全権委員小村寿太郎の随員を務め[10]、次いで11月にポーツマス条約の合意事項を認めさせるために小村が特派全権大使として清国へ派遣された際にも随員を被命[11]。
1906年(明治39年)9月、特命全権公使に任じられ、1914年までオランダ兼デンマーク駐箚[12]。この間、ハーグで開催された、第2回万国平和会議(1907年)に副委員として(委員は都筑馨六)[13]、国際捕獲審検所設立に関する条約の追加条項議定会議(1910年)[14]及び万国阿片会議(1911年)[15]には委員として出席。さらに、改正日蘭通商航海条約及び日丁通商航海条約締結の全権を委任された[16]。
1914年(大正3年)6月に特命全権大使に昇任し、オーストリア=ハンガリー帝国駐箚大使・スイス駐箚公使兼任となったが[17]、同年7月の第一次世界大戦開戦に伴い、8月末にはオーストリアからの引揚げ、本省の臨時勤務を命じられた[18]。1916年(大正5年)6月、アメリカ駐箚大使を被命[19]、1918年(大正7年)2月まで務め、以後本省臨時勤務となった[20]。
1920年(大正9年)4月、待命中に宮內省御用掛に任じられ、伏見宮附別当事務取扱となり、さらに華頂宮宮務監督を兼務[21]。1921年(大正10年)2月の外務省の待命満期[22]とともに、3月に宮内省より正式に伏見宮附の別当として任用された[23]。1923年(大正12年)6月には宮中顧問官に任じられ、伏見宮及び華頂宮の宮務監督を務めた[24]。1930年(昭和5年)3月に再び伏見宮附別当に任じられたが、翌年10月に依願別当被免[25]。
1934年(昭和9年)1月11日、動脈硬化症で倒れ、翌日に狭心症を併発し死去。享年78[26]。墓所は谷中霊園。晩年は母校の東奥義塾財団法人の理事も務めた[27]。
栄典
編集- 位階
- 1886年(明治19年)7月8日 - 正七位[28]
- 1891年(明治24年)12月21日 - 従六位[29]
- 1906年(明治39年)1月31日 - 従四位[30]
- 1914年(大正3年)7月10日 - 従三位[31]
- 1919年(大正8年)8月11日 - 正三位[32]
- 勲章等
- 1894年(明治27年)8月29日 - 勲五等双光旭日章[33]
- 1895年(明治28年)10月31日 - 勲四等旭日小綬章[34]
- 1902年(明治35年)12月28日 - 勲三等瑞宝章[35]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲二等旭日重光章[36]・明治三十七八年従軍記章[37]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)[38]
- 1908年(明治41年)8月4日 - 勲一等瑞宝章[39]
- 1913年(大正2年)10月24日 - 旭日大綬章[40]
- 外国勲章佩用允許
著書
編集- 『貞愛親王逸話』伏見宮、1931年8月。 NCID BN15456272。全国書誌番号:60003733。
親族
編集脚注
編集- ^ 『人事興信録』第4版、1915年1月。
- ^ 青山学院『青山学院九十年史』1965年、41頁
- ^ 彦根正三編『改正官員録』博公書院、1882年2月、24頁。
- ^ 『官報』1886年3月31日及び同年4月2日「叙任及辞令」。
- ^ 『官報』1893年7月26日、同年7月28日及び同年11月13日「叙任及辞令」。
- ^ 『官報』1896年7月8日及び同年7月9日「叙任及辞令」。
- ^ 『官報』1900年10月3日、同年10月25日、1902年12月17日及び1903年1月14日「叙任及辞令」。
- ^ 『官報』1904年9月16日「叙任及辞令」。
- ^ 楠元町子「万国博覧会と皇室外交 : 伏見宮貞愛親王と1904年セントルイス万博」愛知淑徳大学文学部『愛知淑徳大学論集 文学部・文学研究科篇』35号、2010年3月、31-43頁。
- ^ 『官報』1905年7月5日「叙任及辞令」。
- ^ 『官報』1905年11月6日「叙任及辞令」。
- ^ 『官報』1906年9月29日「叙任及辞令」。
- ^ 『官報』1907年4月20日「叙任及辞令」。
- ^ 『官報』1910年9月2日「叙任及辞令」。
- ^ 『官報』1911年10月26日「叙任及辞令」。
- ^ 『官報』1912年5月7日及び1913年10月9日「條約」。
- ^ 『官報』1914年6月27日「叙任及辞令」。
- ^ 『官報』1914年8月27日及び同年9月28日「叙任及辞令」。
- ^ 『官報』1916年6月14日「叙任及辞令」。
- ^ 『官報』1918年2月26日「叙任及辞令」。
- ^ 『官報』1920年4月14日及び同年6月19日「叙任及辞令」。
- ^ 『官報』1921年2月26日「彙報○官庁事項」。
- ^ 『官報』1921年3月14日「叙任及辞令」。
- ^ 『官報』1923年6月8日「叙任及辞令」。
- ^ 『官報』1930年3月5日及び1931年10月2日「叙任及辞令」。
- ^ 「佐藤愛麿氏」『朝日新聞』1934年1月13日、7面。
- ^ 『官報』1934年6月8日「法人登記」。
- ^ 『官報』第908号「叙任」1886年7月12日。
- ^ 『官報』第2545号「叙任及辞令」1891年12月22日。
- ^ 『官報』第6774号「叙任及辞令」1906年2月1日。
- ^ 『官報』第584号「叙任及辞令」1914年7月11日。
- ^ 『官報』第2106号「叙任及辞令」1919年8月12日。
- ^ 『官報』1894年8月31日「叙任及辞令」。
- ^ 『官報』第3704号「叙任及辞令」1895年11月1日。
- ^ 『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
- ^ 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年9月28日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』1908年8月5日「叙任及辞令」。
- ^ 『官報』1913年10月25日「叙任及辞令」。
- ^ 『官報』1896年3月7日「叙任及辞令」。
- ^ 『官報』第3917号「辞令」1896年7月20日。
- ^ 『官報』第4005号「叙任及辞令」1896年11月2日。
- ^ 『官報』1900年11月8日「叙任及辞令」。
- ^ 『官報』1909年11月30日「叙任及辞令」。
- ^ 『官報』1913年5月6日「叙任及辞令」。