富山弥兵衛
富山 弥兵衛(とみやま やへえ、天保14年(1843年) - 慶応4年閏4月1日(1868年5月22日))は、新選組隊士、御陵衛士。通称は弥兵衛、四郎。諱は豊国。
来歴
編集1843年、薩摩藩士の子弟として生まれる。でっぷりと太っていたらしい。1864年、新選組に加盟して七番大砲組に属し、翌1865年には伍長をつとめた。のち、伊東甲子太郎らと共に御陵衛士結成に参加する。油小路事件では新選組との乱闘の末現場を脱出し、のちに薩摩藩に匿われた。のち、伏見街道で阿部十郎ら御陵衛士残党と共に近藤勇を襲撃した(黒染事件[1])。
戊辰戦争では薩摩藩に属し、鳥羽・伏見の戦いに薩摩藩兵として参加。越後出雲崎にて会津藩の動向探索に従事したが、水戸諸生党に捕らえられ、一時は逃走したものの、失敗して1868年の閏4月に殺害された。その首は梟首されたが、捨札には「後世諸士ノ亀鑑大丈夫ノ士(=後世の武士諸君の手本となる大丈夫の士)」と勇戦をうたわれた。享年26。小木の城山(西越郷土誌編纂会)に書かれている目撃者の証言よれば「もぢり袖の着物を着て、端を内側に折って、小納戸の股引に脚絆を穿いてゐた。何の気なしに見て居たが、後から追手が来たので、上方の忍びの者ででもあろうかと話して居た」という。出雲崎の教念寺に墓碑が現存し、「薩摩藩士 富山四郎豊國之碑」と刻まれている。
辞世の句では「から人は死してぞ止まめ我はまたなな世をかけて国につくさん」と書かれている
備考
編集小説
編集脚注
編集- ^ “御陵衛士列伝 富山弥兵衛”. www4.plala.or.jp. 2018年9月8日閲覧。
参考文献
編集- 市居浩一『高台寺党の人びと』(人びと文庫、1977年)
- 新人物往来社編『新選組史跡事典』
- 鈴木亨編・古賀茂作著『「新撰組」全隊士録』講談社、2003年