山川二葉
山川 二葉(やまかわ ふたば、弘化元年8月19日〈1844年9月30日〉 - 明治42年〈1909年〉11月14日)は、日本の教育者 [1]。
山川 二葉 | |
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生誕 |
1844年9月30日 会津若松[1] |
死没 |
1909年11月14日(65歳没) 現・東京都港区六本木[2] |
職業 | 女子教育者[1] |
配偶者 | 梶原平馬 |
子供 | 梶原景清 |
略歴
編集陸奥国会津藩若松城下(現在の福島県会津若松市)にて、国家老山川重固とえん(艶;会津藩士西郷近登之の娘)の長女として生まれる。弟妹は浩[3]、三輪、操、健次郎、常磐、さき(捨松)[4][* 1]。万延元年(1860年)に父が死去した当時、二葉は数え17歳で、16歳の浩が家督を継いだ[5]。
明治維新以前、後に家老職に就く梶原平馬[3]と婚姻したものの、短期間で離縁して復籍(離縁日時は不詳)、一子景清(慶応2年11月16日生[6])は二葉が養育した。
旧暦明治元年8月-9月(1868年10月-11月)の会津城籠城戦において、その家柄故に山川家の人々は相応の役割を果たし、婦女子は調理と配布、負傷者の看護、旧式銃弾の製造と補充などの業務に当たった[7]。また、いざという時は、自刃できぬ幼い妹ら(常盤とさき)を一緒に危めることを母より申し付けられたという[8]。降伏後、婦女子は塩川村での謹慎を命じられ、会津松平家の斗南藩(旧盛岡藩領北部)への移封決定とともに、明治3年(1870年)には山川家も他の藩士家族と共に移住、明治4年(1871年)には藩庁が設置された田名部に居を構えた[8]。しかし、同年の廃藩置県で斗南藩も廃止となり、山川家は新暦1873年(明治6年)に上京した[9]。
二葉は1877年(明治10年)12月より東京女子師範学校(お茶の水女子大学の淵源)に寄宿舎長として雇われ、1881年(明治14年)7月以降は安達安とともに舎中取締を務めた[1]。
1884年(明治17年)2月には文部省より東京女子師範学校御用掛(准判任)として正式に任用され、1885年(明治18年)8月の東京師範学校との合併により東京師範学校御用掛(准判任)として生徒取締を務め、高等師範学校への改編に伴い1886年(明治19年)6月より同校舎監(判任官八等)に任じられた[1](1885年8月当時の東京師範学校校長は同郷で籠城戦を共にした高嶺秀夫で、翌1886年3月からは実弟山川浩が現役陸軍軍人として校長職を兼務、高嶺は教頭となり、当該人事は高等師範学校への改編後も1891年まで継続された)。
1890年(明治23年)3月の女子高等師範学校の分離独立後も、引き続き同校舎監(判任官五等)に任用され、1891年(明治24年)8月には助教諭兼舎監心得、1892年(明治25年)2月以降は教諭兼舎監に任じられた。1903年(明治36年)の官制改正により生徒監に就任後、翌1904年(明治37年)に依願退官した(勤続28年)。この間、官等においては、1895年(明治28年)の高等官八等(奏任)を皮切りに、退官前年には高等官五等まで陞叙された。[1]
1909年(明治42年)11月14日、喘息に気管支カタルを併発し、東京市赤坂区檜町の自宅で死去[2]。享年66。
一人息子の景清は梶原姓を継ぎ、海軍軍医として呉海軍工廠軍医長などを務め軍医大佐に昇進[10]、創設以来の稚松会会員[11]。一男一女を儲け、長女清子は石川栄耀の妻となった[12]。
栄典
編集還暦を迎え健康が思わしくないことから退官を願い出たところ、1904年に特旨をもって従六位より二級昇級、従五位に叙せられた[1][* 2]。
脚注
編集注釈
編集- ^ ほかに夭折した兄弟が5人。次女三輪は会津藩士桜井政衛の妻。三女操は会津藩士小出光照に嫁ぎ、夫を佐賀の乱で亡くした後宮内庁に出仕、御用掛兼昭憲皇太后附女官、権掌侍、フランス語通訳として仕えた。
- ^ 桂太郎(内閣総理大臣 伯爵)、久保田譲(文部大臣)『女子高等師範学校生徒監山川二葉特旨叙位ノ件』(pdf)国立公文書館、明治37年(1904年)10月24日、1-8頁 。2021年2月18日閲覧。「立案 明治三十七年十月二十四日 女子高等師範学校生徒監従六位山川二葉特旨ヲ以テ位二級新達ノ件 女子高等師範学校生徒監従六位山川二葉特旨ヲ以テ位二級被進 従六位山川二葉 叙従五位 右謹テ奏ス 明治三十七年十月二十二日 内閣総理大臣伯爵桂太郎
女子髙等師範学校生徒監従六位山川二葉ハ明治十年東京女子師範学校雇就職以来二十有七年ノ久シキ始終一日ノ如ク専ラ寄宿舎ノ整理及寄宿生徒ノ訓育ニ尽瘁シ我国今日女子教育ノ隆盛ヲ致セル与テ大ニ力アリ就中髙等官在職十二年以上ニシテ勤労尠カラス然ルニ年既ニ六十ヲ踰ヘ近来健康ヲ失シテ心身共ニ衰弱シ劇務ニ堪ヘ難キ故ヲ以テ退官願出候ニ付此際頭書ノ通特ニ位二級ヲ進メ従五位ニ叙セラレ度茲ニ謹テ奏ス 明治三十七年十月二十一日 文部大臣 久保田譲」国立公文書館での請求番号は叙00178100、アジア歴史資料センターのデータベースにも収載。
出典
編集- ^ a b c d e f g 叙位裁可書 1904.
- ^ a b 「女流教育家山川二葉(11•15東朝)」『新聞集成明治編年史』 14巻、林泉社、1940年、170頁。doi:10.11501/1920445。全国書誌番号:50002761 。
- ^ a b 会津戊辰戦史 1933, pp. 697–699.
- ^ 遠藤由紀子 2008, p. 27脚注
- ^ 山川二葉「山川氏の母勝誓院(二)」『女学雑誌』162号(1889年5月)、女学雑誌社、33頁。
- ^ 宮崎十三八『会津人の書く戊辰戦争』恒文社、1993年、58頁。
- ^ 遠藤由紀子 2008, p. 29.
- ^ a b 松野良寅 1990, p. 101-102.
- ^ 遠藤由紀子 2008, p. 31.
- ^ 海軍省人事局「海軍軍医大佐 梶原景清」(写真)『観桜会 (2)』1925年(大正14年)3月26日~同年4月18日。防衛省防衛研究所所蔵(海軍省-公文備考-T14-10-3229)。アジア歴史資料センターのデータベースでは、レファレンスコード:C08051343300。
- ^ 『稚松会会員名簿』(明治45年3月調)、『財団法人 稚松会名簿』(昭和12年12月)
- ^ 遠藤由紀子「会津藩家老山川家の明治期以降の足跡 ―次女ミワの婚家・桜井家の記録から―」『昭和女子大学女性文化研究所紀要』第45巻、昭和女子大学女性文化研究所、2018年、13-36頁、ISSN 0916-0957、NAID 120006472849。
参考文献
編集- 国立公文書館所蔵・叙位裁可書「女子高等師範学校生徒監山川二葉特旨叙位ノ件」履歴書添付、明治37年10月24日。
- 會津戊辰戰史編纂会 編「巻11付録 会津藩執政年表」『會津戊辰戰史』1933年(昭和8年)、697-699頁。doi:10.11501/1921057。
- 遠藤由紀子「会津藩家老梶原平馬をめぐる女性 -山川二葉と水野貞-」『昭和女子大学女性文化研究所紀要』第35号、昭和女子大学、2008年3月、25-41頁、ISSN 0916-0957、NAID 110007055337、2021年2月18日閲覧。
- 松野良寅「会津藩女性と英学(1) 大山捨松を中心に」『英学史研究』第1991巻第23号、日本英学史学会、1990年、99-113頁。
関連文献
編集発行年順
- 黒川竜 編『山川二葉先生』桜蔭会、1910年。
- 山川健次郎 編『戊辰殉難名簿 : 校訂』、飯沼関彌(出版者)、1929年(昭和2年)、doi:10.11501/1192421。
- 阿井景子『明治を彩った妻たち』新人物往来社、1990年。ISBN 4-404-01742-1。
- 小島一男『会津人物事典 (武人編)』会津若松 : 歴史春秋出版、1993年。全国書誌番号:94073033。
- 山川健次郎 監修『會津戊辰戰史』復刻版、マツノ書店、2003年、全国書誌番号:20436426。以下2点より編纂。
- 1. 會津戊辰戰史編纂会『會津戊辰戰史』1933年(昭和8年)doi:10.11501/1921057
- 梶原悌彦(平馬)景武の若年寄拝命は慶応元年5月、同2年3月家老拝命、明治元年8月戦没。西郷頼母近悳の家老拝命は文久3年7月、同11月御免御叱、明治元年8月家老復職。同年同月山川大蔵重栄家老拝命。
- 2. 会津弔霊義会『明治戊辰殉難名簿』1978年(昭和53年)
- 親本は『戊辰殉難名簿』佐瀬剛(編)、戊辰殉難者七十年祭典、1937年(昭12年)、全国書誌番号:46073428、doi:10.11501/1222973。
関連項目
編集- 日本における女性の合戦参加の年表
- 八重の桜(2013年、NHK大河ドラマ第52作品、演:市川実日子)