於振
織田信長の娘
生涯
編集徳川家康の母方従弟にあたる水野忠胤(水野忠重の二男。水野勝成の弟)に嫁ぎ、1男2女(勝信、南条宜政室、丹羽氏信室)を儲けた[1]。関ヶ原の合戦後、忠胤は三河国内に1万石の所領を有する大名(三河水野藩)となり、江戸幕府においては大番頭を務めていた。
しかし慶長14年(1609年)、忠胤が松平忠頼(浜松藩主。忠胤の従弟にあたる)を自邸に招いた際、配下の者が忠頼を殺害する事件を起こし[1]、これに加えて配下の統制不行き届きが咎められ、切腹を命じられた[1]。水野忠胤の家は改易となった。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻三百二十八「水野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.831。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻四百八十八「織田」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.558。