旅籠
旅籠(はたご)または旅籠屋(はたごや)は、旅人を宿泊させ、食事を提供する宿泊施設(旅館)。主に江戸時代に宿場町で営業・呼称していたが、近代以降も旅籠または旅籠屋の名称を宿やホテルの名称として使う場合がある。本稿では主に江戸時代の五街道(東海道・東海道五十三次、中山道・中山道六十九次など)の宿場町の旅籠屋について詳述する。江戸時代の東海道五十三次の宿場には、本陣、脇本陣を筆頭に、約3000軒の旅籠が存在した。
概要
編集旅籠という言葉は元々は旅の時、馬の飼料を入れる籠(かご)のことであった。それが、旅人の食糧等を入れる器、転じて宿屋で出される食事の意味になり、食事を提供する宿屋のことを旅籠屋、略して旅籠と呼ぶようになった。
宿屋という視点から見ると、現代の旅館の原点であり、また、旅籠の格式が上がると、本陣 、或いは、脇本陣となり、参勤交代の大名や公家、勅使が宿泊する五街道に門を構えるそれらの格式のある旅籠は、名主や旧家が務める事が多かった。その為、本陣等に格式が上がると、幕府に許された、表門、式台付玄関、上段の間等の武家屋敷宛らの門構がある代わりに、一般客を泊めてはならない等の制約があり、参勤交代制度がなくなると、宿屋を続けることが困難になる家も多かった。
江戸時代の五街道には宿場ごとに多くの旅籠があり、武士や一般庶民の泊まり客で賑わった。次第に飯盛女を置く飯盛旅籠と、飯盛女を置かない平旅籠に別れていった。しかし、強引な客引きや飯盛り女を嫌ったり、一人旅をしたりする行商人などから、安心して泊まれる宿が欲しい、という要望が増えたため、各地で旅籠による組合(浪花組や一新講社等の旅籠の組合)も出来た。幕末の参勤交代の廃止や動乱を経て、明治時代になって旧街道が廃れ、鉄道網が発達してくると、徒歩や牛馬による交通が減少し、旅籠も廃業に追い込まれたり、駅前に移転したりするところが相次ぐようになった。現在でも、旧宿場町の同じ場所で昔のままに旅館を営んでいるものは数えるほどしかない。
一般的な旅籠の宿泊代は概ね一泊200 - 300文(現在の貨幣価値で3,000 - 5,000円程度に相当)程度が一般的だった。混雑時には相部屋が求められることもあり、女性の旅客は難儀をしたとされる。参勤交代で宿泊する大名や公家、勅使、また、将軍に献上する茶つぼ等による本陣や脇本陣の利用料は、下賜金という形で渡され、大名だと2、3両(現在の価値でいうと20、30万円)ほどで、扇子など物を贈ることもあった。
分類
編集特色
編集食事
編集以下は大坂の豪商・升屋平右衛門(山片重芳)の『仙台下向日記』(文化10年(1813年))より例示。
夕飯は、一汁二、三菜が標準であった。
組合
編集江戸時代の中頃になると、強引な客引きや飯盛り女を嫌ったり、一人旅をしたりする行商人などから、安心して泊まれる宿が欲しい、という要望が増えたため、各地で旅籠による組合が出来た。
例えば、浪花組(後の浪花講)では、主要街道筋の真面目な優良旅籠を指定し、加盟宿には目印の看板をかけさせるとともに、組合に加入している旅人に所定の鑑札を渡して宿泊の際に提示させるようにした。また、『浪花組道中記』『浪花講定宿帳』を発行し、各宿駅ごとに講加盟の旅籠や休所の名を掲載するとともに、道中記としても役立つ道案内を兼ねた情報を掲載した。また明治に入ると参勤交代の消滅から宿場町の本陣、脇本陣が廃業に追い込まれた。この中で、東海道の興津宿(静岡市清水区)の脇本陣「水口屋〈みなぐちや〉」は、庶民に宿泊の対象を代え、品川宿から伊勢に至る優良旅館の組合「一新講社」をつくった。また、伊藤博文、山縣有朋、西園寺公望も古くから歌枕の清見潟とも呼ばれる風光明媚な興津を度々訪れて「水口屋〈みなぐちや〉(一碧楼 水口屋旅館)」へ投宿をした。
他方、「真誠講」といった団体も「改正浪花講」「一新講社」等と併設されているが、旅で派生した手荷物を安全に運ぶ団体である。この真誠講は、現在の日本通運の前身である。
現存する旅籠建築
編集現存し宿泊できる旅籠
編集以下の旅籠が昔の街道の宿場に現存し、営業を続けていて宿泊することができる。
現存し公開されている旧旅籠
編集旅籠を題材とする作品
編集脚注
編集- ^ 「江戸時代の旅籠を旅館に」『日経産業新聞』2019年7月5日(食品・日用品・サービス面)2019年7月20日閲覧。
- ^ a b “真山家”. 佐久市ホームページ. 佐久市 (2015年2月2日). 2016年11月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年11月9日閲覧。
- ^ 芭蕉も広重も泊まった旅籠、360年の歴史に幕『朝日新聞』
- ^ 東海道赤坂宿 大橋屋(旧旅籠鯉屋)保存工事を終え開館いたします。 愛知県東三河広域観光協議会(2019年4月4日) 2019年7月20日閲覧。