朱載堉
朱 載堉(しゅ さいいく、1536年[1] - 1611年[2])は、明の学者。字は伯勤、号は句曲山人[3]。数学・音楽・暦法を研究し、特に十二平均律の計算を世界で最初に行ったことで知られる。
生涯
編集朱載堉は明の宗族であり、洪熙帝の次男で鄭王に封ぜられた朱瞻埈の五世の孫で、鄭恭王朱厚烷の長男にあたる。嘉靖27年(1548年)、父は道教に熱中する嘉靖帝を諫めたことから帝の怒りを買って獄に入れられた。さらに2年後、朱厚烷の父のいとこにあたる朱祐橏がこの騒ぎに乗じて自分が鄭王になろうとして朱厚烷の罪を言い立てたため、朱厚烷は庶人に落とされ、鳳陽に禁錮された。帝が崩御した後の隆慶元年(1567年)に朱厚烷は鄭王に復位し、懐慶府に戻った。朱載堉は父が罪もないのに罰せられたことを悲しみ、復位するまでの19年間、門外に土室を築いて謹慎した[4]。この間、嘉靖39年(1560年)に『瑟譜』10巻を著している[5]。
父は万暦19年(1591年)に没したが、朱載堉は襲位を断った[4]。万暦33年(1605年)、朱祐橏の孫の朱載壐に鄭王の位を譲った[6]。
見滋 | 鄭康王 祐枔 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
洪熙帝 | 鄭靖王 瞻埈 | 鄭簡王 祁鍈 | 見濍 | 祐橏 | 厚煒 | 鄭敬王 載壐 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
見𣹟 | 鄭懿王 祐檡 | 鄭恭王 厚烷 | 載堉 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
朱載堉は母方のおじにあたる何瑭に天文学と数学を学んだ[7]。
万暦23年(1595年)に『律暦融通』『聖寿万年暦』を編纂し、改暦を進言したが行われなかった[8]。
著書
編集1606年に完成した『楽律全書』が代表的な著書である。この著書には13種類の書物を収めているが、最初の『律呂正義』において、三分損益法が精密でないことを指摘し、新法密率、すなわち十二平均律を提唱し、十二律各音の値を25桁の精度で求めた。朱載堉の計算によれば、黄鐘を2とすると、応鐘は1.059463094359295264561825になり、これは の値としてきわめて正確である。
密率について記されている一番古い書物は『楽律全書』に収められた『律学新説』(1584年)である[7]。
朱載堉はまた、律管の管長のみを変えて管の太さを無視する伝統的な方法を批判し、音が高くなるときには管の直径も小さくなる異径管律を定めた(『律呂正義』内篇二・不取囲径皆同第五之上)。この方法では半音上がるごとに管の直径を で割る[9]。
朱載堉の著書には多くの楽譜や細かい図入りの舞踏の記述がある。『霊星小舞譜』では16人の男児による舞踏を記述しているが、「天下太平」の人文字を作ったりする様子を詳しく記している。また、楽譜は複数の楽器をひとまとめに記しており、西洋のスコアと同様の機能を果たす[10]。
- 朱載堉「霊星小舞譜」『楽律全書』 巻41 。(四庫全書本)
ほかに『律呂正論』、『律呂質疑弁惑』、『律暦融通』、『聖寿万年暦』、『嘉量算経』などの著書がある。
脚注
編集参考文献
編集- 薛宗明『中国音楽史 楽譜篇』台湾商務印書館、1981年。
- 楊蔭瀏『中国古代音楽史稿』 下冊、人民音楽出版社、1981年。