松平資尹
松平 資尹(まつだいら すけただ)は、丹後国宮津藩2代藩主。本庄松平家5代。
松平資尹 | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 延享3年3月21日(1746年5月11日) |
死没 | 明和2年7月23日(1765年9月8日) |
改名 | 定八郎(幼名)、資尹 |
戒名 | 俊徳院乾誉慈秀和順 |
墓所 |
東京都台東区浅草の安養寺 京都府宮津市金屋谷の大頂寺 |
官位 | 従五位下・大隅守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治 |
藩 | 丹後宮津藩主 |
氏族 | 酒井氏(左衛門尉家)、本庄松平家 |
父母 |
酒井忠寄、山本氏 松平資昌 |
兄弟 |
酒井忠温、植村寿朝、本多康伴、 本多忠久、資尹、清暁院ら |
子 | 資承 |
生涯
編集延享3年(1746年)3月21日、出羽国庄内藩5代藩主・酒井忠寄の七男として江戸で生まれる。宝暦11年(1761年)8月19日、宮津藩主松平資昌の養子となる。10月1日、将軍徳川家治に御目見する。11月27日、資昌の隠居により家督を継いだ。12月18日、従五位下・大隅守に叙任する。
明和2年(1765年)7月23日、江戸で死去した。享年20。跡は養子の資承が継いだ。