林友幸
日本の武士、政治家
林 友幸(はやし ともゆき、文政6年2月6日(1823年3月18日) - 明治40年(1907年)11月8日)は、日本の武士、政治家。元老院議官、貴族院議員、枢密顧問官を歴任。通称は周次郎、半七。栄典は勲一等旭日桐花大綬章伯爵。林博太郎の祖父。
来歴
編集萩藩士林周蔵と冬子の長男として長門国阿武郡土原(現・山口県萩市)に生まれる。宝蔵院流槍術の名手で、「槍の半七」と呼ばれた[1]。文久3年(1863年)奇兵隊の参謀となり、翌年の下関戦争で活躍。慶応4年(1868年)の戊辰戦争でも活躍。新政府の会計官権判事として盛岡藩に派遣され、旧藩体制を解体し新体制への移行を進めるなど行政手腕にも優れたものを見せた。
明治2年(1869年)会計官権判事、盛岡県大参事、九戸県権知事、同3年(1870年)民部大丞兼大蔵大丞、同7年(1874年)内務大丞兼土木頭、同8年(1875年)内務少輔となる。同9年(1876年)明治天皇の北陸巡幸に同行。同13年(1880年)元老院議官、同23年(1890年)7月10日、貴族院議員[2](1900年4月23日まで在任[3])、同年10月20日、錦鶏間祗候となる[4]。明治33年(1900年)枢密顧問官に就任。また富美宮・泰宮の養育主任も務める。同40年(1907年)、84歳で死去した。
栄典
編集- 位階
- 1885年(明治18年)10月1日 - 正四位[5]
- 1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[6]
- 1894年(明治27年)5月21日 - 正三位[7]
- 1902年(明治35年)10月31日 - 従二位[8]
- 1907年(明治40年)11月8日 - 正二位[9]
- 爵位
- 勲章等
逸話
編集佐々木高行とは同じ保守派で仲が良かったといわれている。
家族
編集脚注
編集- ^ 青山霊園に眠る偉人・著名人一覧ハナミズキ
- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』52頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、10頁。
- ^ 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
- ^ 『官報』第678号「賞勲叙任」1885年10月2日。
- ^ 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
- ^ 『官報』第3266号「叙任及辞令」1894年5月22日。
- ^ 『官報』第5800号「叙任及辞令」1902年11月1日。
- ^ a b 『官報』第7311号「叙任及辞令」1907年11月9日。
- ^ 『官報』第1156号「叙任及辞令」1887年5月10日。
- ^ 『官報』第1219号「彙報」1887年7月22日。
- ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
- ^ 『官報』第3152号「叙任及辞令」1893年12月29日。
- ^ 『官報』第6595号「叙任及辞令」1905年6月26日。
- ^ 中野文庫 - 旧・勲一等旭日桐花大綬章受章者一覧
- ^ 『官報』第7309号「叙任及辞令」1907年11月7日。
- ^ a b 『明治維新人名辞典』日本歴史学会、1981、p798
- ^ 林友幸『人事興信録』初版 [明治36(1903)年4月]
- ^ 成る程の記林荘次郎 1904
- ^ 宮越勉「初期「白樺」の有島生馬と里見弴」『明治大学人文科学研究所紀要』第59巻、明治大学人文科学研究所、2006年3月、181-214頁、ISSN 05433894、NAID 120001440265。
参考文献
編集公職 | ||
---|---|---|
先代 (新設→欠員) |
内務少輔 1875年 - 1880年 (1876年から前島密と共同) |
次代 品川弥二郎 |
先代 小野義真 |
土木頭 1874年 - 1877年 |
次代 (廃止) |
先代 (新設) |
九戸県権知事 1869年 |
次代 村上光雄 八戸県権知事 |
ビジネス | ||
先代 折田正介 |
東京火災保険会社社長 1890年 - 1891年 |
次代 安藤則命 |
日本の爵位 | ||
先代 陞爵 |
伯爵 林(友幸)家初代 1907年 |
次代 林博太郎 |
先代 叙爵 |
子爵 林(友幸)家初代 1887年 - 1907年 |
次代 陞爵 |