榊原政永
榊原 政永(さかきばら まさなが)は、江戸時代中期の大名。越後国高田藩の初代藩主。官位は従四位下・侍従、右京大夫。榊原家9代当主。ただし、本来の初代藩主・9代当主であった異母兄の榊原政純の身代わりとして擁立され、公式には同一人物とされた。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元文元年6月1日(1736年7月9日) |
死没 | 文化4年12月29日(1808年1月26日) |
改名 | 富次郎(幼名)、政従、政純、忠宝、政次、政一、政永 |
官位 | 従五位下・式部大輔、従四位下・侍従、右京大夫 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗→家重→家治→家斉 |
藩 | 越後高田藩主 |
氏族 | 榊原氏 |
父母 | 父:榊原政岑、母:坂田氏 |
兄弟 | 政純、政永、勝行、勝定、大久保忠由正室、榊原長之室 |
妻 | 堀田正亮の娘・園 |
子 | 政敦、政晨、政億、政成、職序、稲垣長続、京極高貞、大久保政敏、亀姫、喜連川彭氏正室、内藤正弘正室ら |
特記 事項 | 異母兄の政純の死後に身代わりで家督相続し、公式には同一人物とされた。 |
生涯
編集元文元年(1736年)6月1日、姫路藩主・榊原政岑の次男として誕生。生母は坂田氏。幼名は富次郎。初名は政従。その後、政純(異母兄の名)、忠宝、政次、政一、政永(隠居後)と改名する。
寛保元年(1741年)、政岑は8代将軍・徳川吉宗から強制隠居と蟄居を命じられ、家督は嫡男・小平太政純が継いだが、さらに姫路から高田へ転封となった。政岑は寛保3年(1743年)に没した。
延享元年(1744年)12月11日、小平太政純が病死した。小平太は兄とはいえ富次郎とは1歳しか違わず、当時数え10歳であった。幼少のため将軍御目見も果たしておらず、世継も定めていなかった。末期養子が認められる年齢でもなかったため、榊原家は幕閣から内密の了承を得て、異母弟の富次郎政従を小平太政純とすり替えることにした。
寛延3年(1750年)10月1日、富次郎は小平太政純として9代将軍・徳川家重に御目見した。同年12月18日、従五位下・式部大輔に叙任する。以降、宝暦4年(1754年)従四位下、天明4年(1784年)侍従、寛政元年(1789年)右京大夫と官位を重ねた。
寛政元年(1789年)5月10日に隠居し、跡を次男・政敦に譲る。隠居後、右京大夫を称する。文化4年12月29日(1808年1月26日)死去。
逸話
編集父の政岑は、当時の将軍・徳川吉宗が出した倹約令を無視した行動を行ったために処分を受け、榊原家は越後高田へ懲罰転封となった。政岑は複数の芸事も熱心に遊んだが、その一つに能楽があった。この能楽趣味は政永も受け継いだ。
政永は城中で自身の舞う能の会を何度も開催し、その都度身内や家臣らに、観覧の許可を与えた。許可といっても命令に等しく、家臣らは参加が強要されたも同然であった。何度も開催される主君の能に辟易した家臣らは、何かと理由をつけて避けたため、回を重ねるごとに観覧者が減少していった。これでは張り合いがないので、なんとか観る者を増やしたい政永は、次に城下の領民らに対し観覧の許可を与えた。普段は入ることのできない城内での能舞台であり、殿様を間近に見られる機会であったため、領民らはお城見物とばかりにこぞって押し寄せたが、これも回を重ねるごとに物珍しさも無くなり、参加者が減っていった。このため政永は町々村々に対し、人口や石高に応じて観覧者の強制割り当てを命じた。町年寄や名主らはこれに困り、藩と交渉を行い、参加者には日当と弁当が出ることを約束させた。それでもしかし、能どころではない農繁期などは参加者が激減した。最終的に城下にたむろしていた素性も知れぬ無宿人らが、日当と弁当目当てに殿様の能を観にやってくるようになってしまった。
そもそも能楽鑑賞を家臣や城下の庶民が好むとは限らない上に、政永の能は上手か下手かも定かではない。
年表
編集官位位階
編集系譜
編集父母
- 榊原政岑(父)
- 坂田氏(母) - 側室
正室
- 園 - 堀田正亮の娘
子女
家臣
編集- 岡部八左衛門 - 剣術家
脚注
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