沖蔵
大正末から昭和期の弁護士、農民運動家、政治家
沖 蔵(藏、おき おさむ、1893年(明治26年)11月2日[1] - 1978年(昭和53年)10月29日[2])は、大正末から昭和期の弁護士・農民運動家・政治家。衆議院議員。
沖蔵 おき おさむ | |
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生年月日 | 1893年11月2日 |
出生地 |
日本 福岡県山門郡水上村大字小田 (現福岡県みやま市瀬高町小田) |
没年月日 | 1978年10月29日(84歳没) |
出身校 |
東京帝国大学法科大学政治学科卒業 東京帝国大学法学部法律学科卒業 (現東京大学法学部) |
前職 | 弁護士 |
所属政党 |
(立憲政友会→) (翼賛政治会→) (日本進歩党→) 無所属 |
選挙区 | 福岡県第3選挙区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 |
1936年2月 - 1937年3月31日 1942年 - 1945年12月18日 |
東山村会議員 |
経歴
編集福岡県[2]山門郡水上村大字小田[1](東山村[3][4]、瀬高町を経て現みやま市瀬高町小田)で、沖健雄の二男として生まれる[5]。福岡県立中学伝習館(現福岡県立伝習館高等学校)を経て[3]、1918年(大正7年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し[2][3][5]、さらに1922年(大正11年)同大法学部法律学科(独法)を卒業した[2][3][5]。
弁護士を開業し[2][3][4]、法政大学教授[2][3][4]、上智大学講師[3]も務めた。1923年(大正12年)から2年間、自費でドイツを中心としたヨーロッパ各国の政治経済の状況を視察して帰国し、郷里に戻った[3]。
東山村会議員、福岡県会議員、大政翼賛会福岡県支部庶務部長、同県翼賛壮年団副団長などを務めた[2][4][5]。また農業振興にも尽力し、東山村産業組合長、同農会長、福岡県購買連常任理事などに在任した[2][3][4]。
1936年(昭和11年)2月、第19回衆議院議員総選挙で福岡県第3区から立憲政友会所属で出馬して初当選し[6]、1942年(昭和17年)4月の第21回総選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬して再選された[7]。この間、農林省委員、翼賛政治会政調農林委員、同厚生兼務委員などを務め[4]、その後、日本進歩党に所属し衆議院議員に通算2期在任した[2][4]。
戦後は、公職追放となるが[8]、1950年(昭和25年)追放解除後に再び農民運動に加わり、福岡県指導農業協同組合連合会長などを務めた[3]。
国政選挙歴
編集- 第19回衆議院議員総選挙(福岡県第3区、1936年2月、立憲政友会)当選[6]
- 第20回衆議院議員総選挙(福岡県第3区、1937年4月、立憲政友会公認)落選[9]
- 第21回衆議院議員総選挙(福岡県第3区、1942年4月、翼賛政治体制協議会推薦)当選[7]
- 第27回衆議院議員総選挙(福岡県第3区、1955年2月、無所属)落選[10]
脚注
編集- ^ a b 衆議院『第八十回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1942年、29頁。
- ^ a b c d e f g h i 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』151頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『ふるさと人物記』355-356頁。
- ^ a b c d e f g 『翼賛議員銘鑑』95頁。
- ^ a b c d 『大衆人事録 第14版 近畿・中国・四国・九州篇』福岡17頁。
- ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 第19回』537頁。
- ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 第21回』513頁。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、一般該当者名簿479頁。公職追放の該当事項は「翼賛事務局庶務部長翼福岡県支部」。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第20回』529頁。
- ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』351頁。