泊岸村
泊岸村(とまりきしむら)は、日本の領有下において樺太に存在した村(指定町村)。
とまりきしむら 泊岸村 | |
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廃止日 | 1949年6月1日 |
廃止理由 |
国家行政組織法施行 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 樺太地方 |
都道府県 | 樺太庁 敷香支庁 |
郡 | 敷香郡 |
面積 | 786.573 [1] km2. |
総人口 |
4,846人 (1941年12月1日) |
隣接自治体 |
敷香郡敷香町、内路村 恵須取郡恵須取町 元泊郡知取町 |
泊岸村役場 | |
所在地 | 樺太庁敷香郡泊岸村 |
座標 | 北緯48度59分40秒 東経142度51分32秒 / 北緯48.9944度 東経142.8589度座標: 北緯48度59分40秒 東経142度51分32秒 / 北緯48.9944度 東経142.8589度 |
特記事項 | 1943年4月1日以降は北海地方に所属。 |
ウィキプロジェクト |
泊岸という地名は、アイヌ語の「トマリ・ケシ」(入江の外れ)、「トマリ・ケシ・ナイポ」(港の岸にある小川)に由来[2]。
当該地域の領有権に関する詳細は樺太の項目を参照。現在はロシア連邦がサハリン州ヴァフルシェフ、ノーヴォエなどとして実効支配している(行政区画は一致しない)。
概要
編集多来加湾に面していた。村内には京都帝国大学の演習林が存在した。また村内を流れる古丹岸川沿いに炭鉱も存在したほか、上流部では林業が盛んであり、鉄砲堰が組まれて生産された木材の流送も行われていた[3]。
歴史
編集- 1915年(大正4年)6月26日 - 「樺太ノ郡町村編制ニ関スル件」(大正4年勅令第101号)の施行により、新問郡新問村、敷香郡内路村が行政区画として発足。敷香支庁が管轄。
- 1922年(大正11年)10月 - 新問村の所属郡が元泊郡、管轄支庁が元泊支庁にそれぞれ変更。
- 1923年(大正12年)4月1日 - 元泊郡新問村・敷香郡内路村が合併して元泊郡新路村となる。
- 1928年(昭和3年)12月31日 - 元泊郡新路村のうち旧・新問村および旧・内路村の一部が敷香郡泊岸村となる(旧・内路村の残部は内路村となる)。敷香支庁が管轄。
- 1929年(昭和4年)7月1日 - 樺太町村制の施行により二級町村となる。
- 1943年(昭和18年)4月1日
- 「樺太ニ施行スル法律ノ特例ニ関スル件」(大正9年勅令第124号)が廃止され、内地編入。
- 指定町村となる。
- 1945年(昭和20年)8月22日 - ソビエト連邦により占拠される。
- 1949年(昭和24年)6月1日 - 国家行政組織法の施行のため法的に樺太庁が廃止。同日泊岸村廃止。
村内の地名
編集- 旧新問村地域
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- 旧内路村(泊岸)地域
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出身者
編集地域
編集教育
編集以下の学校一覧は1945年(昭和20年)4月1日現在のもの[5]。
- 樺太公立泊岸国民学校
- 炭山分教場
- 樺太公立新問国民学校