源顕基
1000-1047, 平安時代中期の公卿。源俊賢の子。官位は従三位・権中納言。法名は円照、号は横川。勅撰集『後拾遺和歌集』以下に4首入集
源 顕基(みなもと の あきもと)は、平安時代中期の公卿。醍醐源氏高明流、権大納言・源俊賢の子。官位は従三位・権中納言。後一条天皇の側近として仕えた。
時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 長保2年(1000年) |
死没 | 永承2年9月3日(1047年9月30日) |
別名 | 正字:顯基 |
官位 | 従三位、権中納言 |
主君 | 後一条天皇 |
氏族 | 醍醐源氏高明流 |
父母 |
父:源俊賢 母:中納言の君(藤原忠君の娘) |
兄弟 | 成尋阿闍梨母、顕基、隆国、隆縁 |
妻 | 藤原実成の次女、藤原行成の長女 |
子 | 資綱、俊長、俊相 |
経歴
編集三条朝初頭の寛弘8年(1011年)従五位下に叙爵し、長和2年(1013年)侍従次いで右兵衛佐に任官する。長和2年(1013年)に左大臣・藤原道長が賀茂社に詣でた際にはこれに参じている[1]。長和3年(1014年)左近衛少将に任ぜられると、長和4年(1015年)従五位上、長和5年(1016年)正五位下、寛仁2年(1018年)従四位下と近衛少将を務めながら昇進を重ねた。治安3年(1023年)従四位上・右近衛権中将に叙任されるとともに、後一条天皇の蔵人頭となり、翌万寿元年(1024年)正四位下に叙せられる。
この間の治安4年(1024年)顕基の従者が左兵衛佐・源資通の従者と闘乱を起こしたため勘事に処される[2]。また、長元元年(1028年)には顕基の従者が盗人に射殺されている[3]。
長元2年(1029年)従三位・参議に叙任され公卿に列す。参議昇進後も引き続き近衛中将を務め周防権守・伊予権守と地方官も兼帯した。長元8年(1035年)権中納言に至る。しかし、翌長元9年(1036年)4月に後一条天皇が29歳で崩御すると、天皇の側近であった顕基は「忠臣二君に仕えず」として出家してしまった[4]。
逸話
編集風流貴公子であったと伝わり、多くの説話が残っている[5]。日頃より「咎なくて流罪とせられて、配所にて月を見ばや」(無実の罪で流罪となり、配所で月を見たいものだ)と語っていたという(『江談抄』)[6]
官歴
編集『公卿補任』による。
- 寛弘8年(1011年) 10月16日:従五位下に叙爵(氏)
- 長和2年(1013年) 正月24日:侍従。10月23日:右兵衛佐
- 長和3年(1014年) 3月3日:左近衛少将
- 長和4年(1015年) 正月7日:従五位上(少将労)。2月18日:兼備前介
- 長和5年(1016年) 正月6日:正五位下(皇太后宮御給)
- 寛仁2年(1018年) 正月5日:従四位下(少将労)
- 寛仁4年(1020年) 正月:兼播磨介
- 治安元年(1021年) 3月8日:兼周防権介
- 治安3年(1023年) 正月6日:従四位上(少将労)。2月12日:右近衛権中将。12月15日:蔵人頭(頭中将)
- 万寿元年(1024年) 9月19日:正四位下(父卿中宮大夫賞譲之)
- 万寿3年(1026年) 10月26日:左近衛中将
- 万寿4年(1027年) 6月13日:服解(父)。7月:復任
- 長元2年(1029年) 正月24日:参議、中将如元、兼周防権守。12月20日:従三位(八幡加茂行幸行事賞)
- 長元8年(1035年) 正月30日:兼伊予権守。8月:服解(母か)。10月:復任。10月14日:権中納言
- 長元9年(1036年) 4月22日:出家
- 永承2年(1047年) 9月3日:薨去
系譜
編集脚注
編集参考文献
編集- 『日本人名大辞典』講談社、2001年
- 松本昭彦「配所の月を見る人 - 菅原道真の境地・源顕基の思い -」『三重大学教育学部研究紀要 自然科学・人文科学・社会科学・教育科学・教育実践 71』三重大学教育学部、2020年