股野琢
日本の漢学者・官僚
股野 琢(またの たく、天保9年8月21日[1](1838年10月9日) – 大正10年(1921年)10月13日[2])は、日本の儒者、官僚[3]。字は子玉、号は藍田。
経歴
編集播磨国龍野藩に藩儒股野景質(達軒)の長男として生まれ、大坂、江戸に遊学した[1]。1871年(明治4年)、教部省宣教掛として出仕[1]。その後、太政官に入り、内閣記録局長に昇進した[1]。1889年(明治22年)、宮内省に転じ、書記官、文事秘書官、局長、別当を歴任し、帝室博物館総長兼内大臣秘書官長に至った[4]。さらに臨時帝室編修局編修官長、宮中顧問官を務めた[4]。
栄典
編集- 位階
- 勲章等
著書
編集- 『鐃歌余響』(1906年)
- 『葦杭游記』(1909年)
- 『邀月楼存稿』(1919年)
脚注
編集参考文献
編集- 五十嵐栄吉『大正人名辞典』東洋新報社、1917年。
- 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
公職 | ||
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先代 (新設) |
臨時帝室編修官長 1918年 - 1921年 臨時帝室編修局編修長 1916年 - 1918年 臨時編修局編修長 1914年 - 1916年 |
次代 竹越与三郎 |
先代 細川潤次郎 文事秘書官長 |
内大臣秘書官長 1908年 - 1917年 |
次代 近藤久敬 |
先代 堤正誼 |
内匠頭 1897年 - 1898年 |
次代 堤正誼 |
先代 井上毅 文事秘書官長 |
文事秘書官長心得 1893年 |
次代 細川潤次郎 文事秘書官長 |
先代 北垣国道 |
久邇宮別当 1889年 - 1891年 |
次代 清岡公張 |
先代 桜井能監 |
山階宮別当 1889年 - 1890年 |
次代 山崎直胤 |