西岡善信
日本の美術監督・映画プロデューサー (1922-2019)
西岡 善信(にしおか よしのぶ、1922年7月8日 - 2019年10月11日[1])は、日本の美術監督・映画プロデューサー。
にしおか よしのぶ 西岡 善信 | |||||
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生年月日 | 1922年7月8日 | ||||
没年月日 | 2019年10月11日(97歳没) | ||||
出生地 | 日本・奈良県[1] | ||||
死没地 | 日本・京都府京都市[1] | ||||
職業 | 美術監督・映画プロデューサー | ||||
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来歴
編集奈良県明日香村出身。法政大学文学部在学中に徴兵され、朝鮮半島で終戦を迎えた。1947年までソ連に抑留され、帰国後の1948年、大映京都撮影所に入社。美術部に配属された。
1952年、『天保水滸伝』(安達伸生監督)で初めて美術監督を務め、以降大映が製作した約180本の映画で美術監督を務めた。1952年に市川崑の監督映画『あの手この手』で美術監督を務めたのをきっかけに、大映京都製作の市川監督作品の全てで美術監督を務めた。
大映倒産の後1972年、旧大映社員とともに「映像京都」を設立し、代表取締役社長を務める傍ら、美術監督、プロデューサーとして活躍。1989年に松竹京都映画常務取締役、1994年にはKYOTO映画塾塾長に就任。2002年に第20回川喜多賞を受賞[2]。
2010年8月31日をもって、自身の高齢を理由に「映像京都」を解散した[3]。
1992年紫綬褒章、1997年勲四等旭日小綬章、1999年京都府文化賞、2001年伊・文化賞(エンリオ・フライアーノ賞)、2004年京都市文化功労賞。
主な作品
編集- 地獄門 (1953年)
- 炎上 (1958年)
- かげろう絵図 (1959年)
- ぼんち (1960年)
- 忠直卿行状記 (1960年)
- 風と雲と砦(1961年)
- 剣に賭ける (1962年)
- 手討 (1963年)
- 越前竹人形 (1963年、毎日映画コンクール美術賞受賞)
- 若親分出獄 (1965年)
- 大魔神逆襲 (1966年)
- 大殺陣 雄呂血(1966年)
- 華岡青洲の妻 (1967年)
- 陸軍中野学校 密命 (1967年)
- 若親分千両肌(1967年)
- 秘録おんな蔵 (1968年)
- 座頭市と用心棒 (1969年)
- 将軍 (1975年)
- 吾輩は猫である(1975年)
- 金閣寺 (1976年)
- 歌麿 夢と知りせば (1977年)
- 鬼龍院花子の生涯 (1981年、日本アカデミー賞最優秀美術賞受賞)
- 陽暉楼 (1983年、日本アカデミー賞最優秀美術賞受賞)
- 瀬戸内少年野球団 (1984年、日本アカデミー賞最優秀美術賞受賞)
- 北の螢 (1984年)
- 櫂 (1985年)
- 薄化粧 (1985年)
- 鑓の権三 (1985年)
- 吉原炎上 (1986年)
- 太閤記(1987年)
- 226 (1987年)
- 利休 (1991年)
- 豪姫 (1992年)
- 女殺油地獄 (1992年)
- 子連れ狼 その小さき手に (1993年)
- 忠臣蔵外伝 四谷怪談 (1994年)
- 藏 (1995年)
- 梟の城 (1998年)
- 御法度 (1999年)
- どら平太 (2000年)
- 長崎ぶらぶら節 (2000年)
- 化粧師 KEWAISHI (2002年)
- バルトの楽園 (2006年)
- 敵は本能寺にあり(2007年)
- 2夜連続 松本清張スペシャル 球形の荒野 (2010年)
- 最後の忠臣蔵(2010年、日本アカデミー賞最優秀美術賞受賞)
出演
編集- 花王ファミリースペシャル「華のとき 田村正和」(1993年、関西テレビ)
脚注
編集- ^ a b c d 「西岡善信さん死去 「地獄門」など映画美術第一人者」『日刊スポーツ』(日刊スポーツ新聞社)2019年10月12日。オリジナルの2019年10月12日時点におけるアーカイブ。2019年10月12日閲覧。
- ^ “第20回川喜多賞 西岡善信氏”. 公益財団法人川喜多記念映画文化財団. 2021年7月13日閲覧。
- ^ 「時代劇の技守り38年、職人集団「映像京都」解散」『京都新聞』2010年8月31日。オリジナルの2010年9月2日時点におけるアーカイブ。2023年7月29日閲覧。
- ^ “映画美術監督の西岡善信さん死去 「地獄門」「利休」”. 朝日新聞. (2019年10月12日) 2019年10月12日閲覧。
参考文献
編集- 室岡まさる(インタビュー・構成) 編『市川雷蔵とその時代』徳間書店、1993年。ISBN 4195552370。
外部リンク
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