(しつ、拼音: sè)は、古代中国ツィター属撥弦楽器古筝に似て、木製の長方形の胴にを張り、弦と胴の間に置かれた駒(柱)によって音高を調節するが、弦の数が25本ほどと多い。八音にあたる楽器のひとつで、後世には祭祀の音楽である雅楽専用の楽器になった。

台南孔子廟にて展示されている瑟

歴史

編集

瑟の歴史はきわめて古い。文献では古琴とともに「琴瑟」と併称され、最も古くから見える弦楽器である。『詩経[1]、『書経[2]をはじめ、先秦の文献にしばしば見える。『礼記』明堂位篇には大瑟と小瑟の2種類の瑟について記述しており、複数の種類の瑟があったことがわかる[3]

考古学的に古いものとしては湖南省長沙瀏城橋一号楚墓(春秋晩期 - 戦国初期)から瑟が出土している。出土した瑟の多くは25弦だが、24弦や23弦のものもある。馬王堆漢墓から出土した25弦の瑟は琴柱の位置が比較的はっきりしており、五音音階に従って調弦されていたと推定される[4]

まで燕楽のうち清楽の伴奏楽器として瑟は残存したが、代以降は祭礼に用いる雅楽専用の楽器になった[4]南宋姜夔は瑟の制度を定めた[5]

の熊朋来は『瑟譜』6巻を著した(1277年出版)。これは瑟に関する最初の専門書だが、各弦に黄鐘から応鐘までの十二律を順番にあてはめており(第13弦を使わないため、音域は2オクターブになる)、姜夔の方式とまったく異なる[6]朱載堉も『瑟譜』10巻を著した(1560年出版)[6]

日本への伝来

編集

正倉院に瑟の残欠一張がある(南倉 177)[7]。現在の雅楽では用いられない。

明楽の瑟は14弦だった[8]

伝説

編集

瑟の起源について、さまざまな伝説がある。『呂氏春秋』には炎帝のときに5弦の瑟が作られ、のときに15弦に増し、のときに23弦に増したという[9]。『史記』には、もと50弦あったが、音が悲しすぎたので黄帝が半分に割いて25弦にしたという話が見える[10]伏羲が瑟を作ったともいう[11][12]

脚注

編集
  1. ^ 『詩経』小雅・鹿鳴「我有嘉賓、鼓瑟吹笙。」
  2. ^ 『書経』虞書・益稷「夔曰:戛撃鳴球、搏拊琴瑟、以詠。」
  3. ^ 『礼記』明堂位「大琴大瑟、中琴小瑟。」
  4. ^ a b 「瑟」『中国音楽詞典』人民音楽出版社、1985年、335頁。 
  5. ^ 『宋史』楽志17
  6. ^ a b 薛宗明『中国音楽史 楽譜篇』台湾商務印書館、1981年、157-160頁。 
  7. ^ 関根眞隆『正倉院の宝物』保育社、1988年、117頁。ISBN 4586507632 
  8. ^ 魏氏楽器図https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100231717 宮内庁書陵部蔵)
  9. ^ 『呂氏春秋』仲夏紀・古楽
  10. ^ 『史記』封禅書「太帝使素女鼓五十弦瑟。悲、帝禁不止。故破其瑟為二十五弦。」
  11. ^ 『太平御覧』巻576・楽部14・瑟「『世本』曰:庖羲氏作瑟。」
  12. ^ 説文解字』巻12・珡(琴)部「瑟、庖犧所作弦楽也。从珡必声。」