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「ジョアン・バチスタ・ダ・シウバ」の版間の差分

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==経歴==
==経歴==
[[SCインテルナシオナル]]のユース出身。1973シーズンから1部に在籍し、[[ダダ・マラヴィーリャ|ダリオ]]、[[フラビオ・ミヌアノ|フラビオ]]、[[マリーニョ・ペレス]]、[[エリアス・フィゲロア|フィゲロア]]、[[パウロ・ロベルト・ファルカン|ファルカン]]、[[ヴァウドミロ・バス・フランコ|ヴァウドミロ]]、[[マウロ・ガウボン|ガウボン]]、[[パウロ・セザール・カルペジャーニ|カルペジャーニ]]らと共にクラブの黄金期を支え、1975年と1976年の[[カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA|セリエA]]連覇、1979年の[[カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA|セリエA]]無敗優勝などを達成した。その後[[グレミオFBPA]]、[[SEパルメイラス]]を経て、1983年からイタリアの[[SSラツィオ]]に移籍、ヨーロッパでも一定の評価を得た。その後[[USアヴェッリーノ1912]]に1年間在籍したものの、あまり活躍できず、1年間無所属となる。1987年からポルトガルの[[CFベレネンセス]]に移籍したが、シーズンを通して戦うだけの体力はなく、わずか8試合の出場にとどまった。1988年に母国復帰し、1990年に引退した。
[[SCインテルナシオナル]]のユース出身。1973シーズンから1部に在籍し、[[パウロ・ロベルト・ファルカン]]、[[マウロ・ガウボン]]、らと共にクラブの黄金期を支え、1975年と1976年の[[カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA|セリエA]]連覇、1979年の[[カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA|セリエA]]無敗優勝などを達成した。その後[[グレミオFBPA]]、[[SEパルメイラス]]を経て、1983年からイタリアの[[SSラツィオ]]に移籍、ヨーロッパでも一定の評価を得た。その後[[USアヴェッリーノ1912]]に1年間在籍したものの、あまり活躍できず、1年間無所属となる。1987年からポルトガルの[[CFベレネンセス]]に移籍したが、シーズンを通して戦うだけの体力はなく、わずか8試合の出場にとどまった。1988年に母国復帰し、1990年に引退した。


==代表歴==
==代表歴==

2016年2月23日 (火) 06:34時点における版

ジョアン・バチスタ
名前
本名 João Batista da Silva
ラテン文字 João Batista
基本情報
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
生年月日 (1955-03-08) 1955年3月8日(69歳)
出身地 リオグランデ・ド・スル州の旗 リオグランデ・ド・スル州ポルト・アレグレ
身長 178cm
選手情報
在籍チーム 引退
ポジション MF
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1973-1981 ブラジルの旗 SCインテルナシオナル
1981-1983 ブラジルの旗 グレミオFBPA
1983 ブラジルの旗 SEパルメイラス
1983-1985 イタリアの旗 SSラツィオ
1985-1986 イタリアの旗 USアヴェッリーノ1912
1987-1988 ポルトガルの旗 CFベレネンセス
1988-1990 ブラジルの旗 アヴァイFC
代表歴
1978-1983 ブラジルの旗 ブラジル 38 (0 [1])
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ジョアン・バチスタJoão Batista)ことジョアン・バチスタ・ダ・シウバJoão Batista da Silva 1955年3月8日 - )は、ブラジル出身の元同国代表サッカー選手。 ハードタックルによるボール奪取とパスセンスに長けた典型的なボランチで、パウロ・ロベルト・ファルカンらと共にSCインテルナシオナルの黄金期を支えた。 ブラジル代表で38試合に出場し、1982 FIFAワールドカップにも出場した。

経歴

SCインテルナシオナルのユース出身。1973シーズンから1部に在籍し、パウロ・ロベルト・ファルカンマウロ・ガウボン、らと共にクラブの黄金期を支え、1975年と1976年のセリエA連覇、1979年のセリエA無敗優勝などを達成した。その後グレミオFBPASEパルメイラスを経て、1983年からイタリアのSSラツィオに移籍、ヨーロッパでも一定の評価を得た。その後USアヴェッリーノ1912に1年間在籍したものの、あまり活躍できず、1年間無所属となる。1987年からポルトガルのCFベレネンセスに移籍したが、シーズンを通して戦うだけの体力はなく、わずか8試合の出場にとどまった。1988年に母国復帰し、1990年に引退した。

代表歴

キャリアを通じて38試合に出場した。これはエジムンドの37試合よりも多い数字である。1982 FIFAワールドカップでは黄金のカルテットの影に隠れたが、それでも2試合に出場した。

外部リンク