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'''ホール'''(''Hole'')は、[[アメリカ合衆国]][[ロサンゼルス]]で[[1989年]]に[[コートニー・ラブ]]を中心に結成された[[ロックバンド]]。コートニーの夫[[カート・コバーン]]の[[ニルヴァーナ (バンド)|ニルヴァーナ]]、元交際相手の[[ビリー・コーガン]]率いる[[スマッシング・パンプキンズ]]らと並び、1990年代を中心に世界的に高い人気を誇った。
'''ホール'''('''Hole''')は、[[アメリカ合衆国]][[ロサンゼルス]]で[[1989年]]に[[コートニー・ラブ]]を中心に結成された[[ロックバンド]]。コートニーの夫[[カート・コバーン]]の[[ニルヴァーナ (アメリカ合衆国のバンド)|ニルヴァーナ]]、元交際相手の[[ビリー・コーガン]]率いる[[スマッシング・パンプキンズ]]らと並び、1990年代を中心に世界的に高い人気を誇った。


活動期間中は、様々な事情で幾度となくメンバーが交代した。解散時の編成は、リードボーカル兼ギターがコートニー・ラブ(Courtney Love)、リードギターがエリック・アーランドソン(Eric Erlandson)、ドラムスはサマンサ・マロニー(Samantha Maloney)。なお、この時点でのベーシストは不在。
活動期間中は、様々な事情で幾度となくメンバーが交代した。解散時の編成は、リードボーカル兼ギターがコートニー・ラブ(Courtney Love)、リードギターがエリック・アーランドソン(Eric Erlandson)、ドラムスはサマンサ・マロニー(Samantha Maloney)。なお、この時点でのベーシストは不在。

== メンバー ==
*[[コートニー・ラブ]](Courtney Love)-リードボーカル、ギター [[1964年]][[7月6日]]生まれ。[[カリフォルニア州]][[サンフランシスコ]]出身 ○△◎●□☆
*エリック・アーランドソン(Eric Erlandson)-リードギター [[1963年]][[1月9日]]生まれ。[[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]出身 ○△◎●□☆
*サマンサ・マロニー(Samantha Maloney)-ドラムス [[1975年]][[12月11日]]生まれ。[[ニューヨーク州]][[ニューヨーク]]出身 ☆
=== 脱退 ===
*メリッサ・オフ・ダ・マー(Melissa Auf der Maur)-ベース [[1972年]][[3月17日]]生まれ。[[カナダ]][[ケベック州]][[モントリオール]]出身 ☆
*Patty Schemel-ドラムス [[1967年]][[4月24日]]生まれ。 △◎□
*Caroline Rue-ドラムス ○●□
*Jill Emery-ベース [[1962年]]生まれ。[[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]出身 ○●□
*クリステン・パーフ(Kristen Pfaff)-ベース [[1967年]][[5月26日]]生まれ。[[1994年]][[6月16日]]死去。[[ニューヨーク州]][[バッファロー (ニューヨーク州)|バッファロー]]出身 △◎
*Leslie Hardy-ベース □

:エリック以外は、全員女性。メリッサ以外は、全員[[アメリカ合衆国]]出身。
:主要メンバー以外は、日本語表記が成されていない、一定していないため、英語表記のままとする。

=== 参加作品 ===
*メンバープロフィールの後の記号を参照
:○:''Pretty on the Inside''
:△:''Live Through This''
:◎:''Ask for It''
:●:''The First Session''
:□:''My Body, the Hand Grenade''
:☆:''Celebrity Skin''


== 来歴 ==
== 来歴 ==
'':本稿の記述におけるCDのリリース日、映画の公開日等は全てアメリカ合衆国におけるもの''
'':本稿の記述におけるCDのリリース日、映画の公開日等は全てアメリカ合衆国におけるもの''
=== 結成 ===
=== 結成 ===
*10代から音楽活動を行い、[[フェイス・ノー・モア]]のボーカルを一時期めるなど、ミュージシャンに知己の多かった[[コートニー・ラブ]]が、1989年にロサンゼルで結成。2年後の[[1991年]][[9月7日]]、1stアルバム『'''プリティ・オン・ジ・インサイド'''(''Pretty on the Inside'')』、ニュヨークのキャロラインレコードというインディーズレーベルからリリース。コートニー自身が、娼婦だった体験などを赤裸々に歌い上げた作品で、欧米ツアーを成功させた。みに、このアルバムは[[ソニック・ユース]]の[[キム・ゴードン]]がプロデュースしている。
10代から音楽活動を行い、[[フェイス・ノー・モア]]のボーカルを一時期めるなど、ミュージシャンに知己の多かった[[コートニー・ラブ]]が、1989年にロサンゼルで結成。2年後の[[1991年]][[9月7日]]、1stアルバム『プリティ・オン・ジ・インサイド』(''Pretty on the Inside''[[ヴァレコード]]傘下の[[インディーズ|インディー]]レーベルであった[[キャロライン・レコード]]からリリース。コートニー自身が、娼婦だった体験などを赤裸々に歌い上げた作品で、欧米ツアーを成功させた。な、このアルバムは[[ソニック・ユース]]の[[キム・ゴードン]]とドン・フレミングがプロデュースしている。


*また、この年にコートニーはカートと出会い、既にトップスターだったカートとの交際はセンセーショナルに報道され、皮肉にもコートニーとバンド自身の知名度を上げることに一役買うこととなった。
また、この年にコートニーはカートと出会い、既にトップスターだったカートとの交際はセンセーショナルに報道され、皮肉にもコートニーとバンド自身の知名度を上げることに一役買うこととなった。


=== Live Through This ===
=== リブ・スルー・ディス ===
*こうした私生活のトラブルやメンバーの交代が相次ぐが、[[1993年]]には、ニルヴァーナの所属レーベルでもあるゲフィンと契約。メジャーデビュー作となるアルバムの制作を行う。この作品は、[[1994年]][[4月12日]]リリースが告知されるが、発売1週間前の同年[[4月5日]]に、カートが散弾銃で[[自殺]]を遂げる。この事件には、不審な点も多かった事から、他殺説も含めた様々な憶測が飛び交い、中には「カートはコートニーに殺された」と主張する者もいた。
こうした私生活のトラブルやメンバーの交代が相次ぐが、[[1993年]]には、ニルヴァーナの所属レーベルでもあるゲフィンと契約。メジャーデビュー作となるアルバムの制作を行う。この作品は、[[1994年]][[4月12日]]リリースが告知されるが、発売1週間前の同年[[4月5日]]に、カートが散弾銃で[[自殺]]を遂げる。この事件には、不審な点も多かった事から、他殺説も含めた様々な憶測が飛び交い、中には「カートはコートニーに殺された」と主張する者もいた。


*そうした事態を乗り越えて、予定通り2nd(メジャー1st)アルバム『'''リブ・スルー・ディス'''(''Live Through This'')』はリリースされた。なお、一部の曲でカートがバックボーカルを務めており、一部にはソングライティングにも携わったという疑惑もあったが、コートニーはそれを否定している。
そうした事態を乗り越えて、予定通り2nd(メジャー1st)アルバム『リブ・スルー・ディス』(''Live Through This''はリリースされた。なお、一部の曲でカートがバックボーカルを務めており、一部にはソングライティングにも携わったという疑惑もあったが、コートニーはそれを否定している。


*この作品は、その内容もさりながら、やはりセンセーショナルな話題性で大きな商業的成功を収め、[[ビルボード]]では最高52位止まりながらロングセールスで、米国の[[ゴールドディスク|プラチナムディスク]]を獲得した。ちなみに、このアルバムの裏ジャケットに写っているのは、少女時代のコートニーである。
この作品は、その内容もさりながら、やはりセンセーショナルな話題性で大きな商業的成功を収め、[[ビルボード]]では最高52位止まりながらロングセールスで、米国の[[ゴールドディスク|プラチナムディスク]]を獲得した。ちなみに、このアルバムの裏ジャケットに写っているのは、少女時代のコートニーである。


=== Session ===
=== セッション ===
*しかし、悲劇は続き、このアルバムにも参加したベーシストのクリステン・パーフ(Kristen Pfaff)が[[1994年]][[6月16日]]、[[ヘロイン]]の[[オーバードー]](過剰摂取)で変死した。バンドは代役にメリッサ・オフ・ダ・マー(Melissa Auf der Maur)を迎え、大規模なツアーを成功させた。[[1995年]][[2月14日]]には[[MTVアンプラグド]]に出演し、オリジナル曲に加えて、当時未発表曲だったニルヴァーナの『'''ユー・ノウ・ユア・ライト'''(''You Know You're Right'')』などを演奏している。
しかし、悲劇は続き、このアルバムにも参加したベーシストのクリステン・パーフ (Kristen Pfaff)が[[1994年]][[6月16日]]、[[ヘロイン]]の[[オーバードー]](過剰摂取)で変死した。バンドは代役にメリッサ・オフ・ダ・マー (Melissa Auf der Maur)を迎え、大規模なツアーを成功させた。[[1995年]][[2月14日]]には[[MTVアンプラグド]]に出演し、オリジナル曲に加えて、当時未発表曲だったニルヴァーナのユー・ノウ・ユア・ライト」("You Know You're Right")などを演奏している。


*また、この時期には、初期のレア音源集も発表されている。[[1995年]][[9月8日]]には『'''アスク・フォー・イット'''(''Ask for it'')』([[1991年]][[11月19日]]と[[1992年]]春のセッションを収録)、[[1997年]][[8月26日]]には『'''ザ・ファースト・セッション'''(''The First Session'')』([[1990年]]のセッションを収録)、同年[[10月28日]]には『'''マイ・ボディ・ザ・ハンド・グレネード'''(''My Body, the Hand Grenade'')』(B面曲や未発表曲を集めたミニアルバム)がリリースされた。
また、この時期には、初期のレア音源集も発表されている。[[1995年]][[9月8日]]には『アスク・フォー・イット』(''Ask for it''[[1991年]][[11月19日]]と[[1992年]]春のセッションを収録)、[[1997年]][[8月26日]]には『ザ・ファースト・セッション』(''The First Session''[[1990年]]のセッションを収録)、同年[[10月28日]]には『マイ・ボディ・ザ・ハンド・グレネード』(''My Body, the Hand Grenade''、B面曲や未発表曲を集めたミニアルバム)がリリースされた。


=== 映画 ===
=== 映画 ===
*一方では、[[1996年]]に公開された[[ミロシュ・フォアマン]](Milos Forman)監督の映画『'''[[ラリー・フリント]]'''(''The People vs. Larry Flynt'')』で、コートニーは女優として熱演を見せ、ニューヨーク映画批評家協会とボストン映画批評家協会の最優秀女優賞、シカゴ映画批評家協会の最優秀新人女優賞を受賞。[[1999年]][[ゴールデングローブ賞]]最女優賞にもノミネートされ、ホール以前の[[1986年]]から活動していた女優としての地位を確立する。
一方では、[[1996年]]に公開された[[ミロ・フォアマン]]監督の映画『[[ラリー・フリント]]』(''The People vs. Larry Flynt''で、コートニーは女優として、[[第62回ニューヨーク映画批評家協会賞|ニューヨーク映画批評家協会賞]]とボストン映画批評家協会の最優秀女優賞、シカゴ映画批評家協会の最優秀新人女優賞を受賞。[[第54回ゴールデングローブ賞]][[ゴールデングローブ賞 映画部門 主演女賞 (ドラマ部門)|主演女優賞]]にもノミネートされ、ホール以前の[[1986年]]から活動していた女優としての地位を確立する。


=== Celebrity Skin ===
=== セレブリティ・スキン ===
*こうした事情から、バンド活動は停滞するが、[[1997年]]から約1年半に亘って、ロサンゼルスとロンドン、ニューヨークでセッションを行い、[[1998年]][[9月8日]]に、3rd(メジャー2nd)アルバム『'''セレブリティ・スキン'''(''Celebrity Skin'')』がリリースされた。このアルバムは、[[スマッシング・パンプキンズ]]の[[ビリー・コーガン]]の助力を受けて完成した。また前作が「ソングライティングにカートの助力を仰いだ」という疑惑にさらされた事から、ビリーら外部の人間を含めた、ソングライターのクレジットを明記している。なお、この作品では、コートニーはギターを弾いておらず(全てエリックの演奏)、作詞と歌唱に専念したという。また収録曲『'''ボーイズ・オン・ザ・レイディオ'''(''Boys On The Radio'')』は亡きカートに捧げた歌である。ビルボードでは最高8位、全英でも最高11位を記録し、[[グラミー賞]]にノミネートするなど商業的にも成功を収めた。
こうした事情から、バンド活動は停滞するが、[[1997年]]から約1年半に亘って、ロサンゼルスとロンドン、ニューヨークでセッションを行い、[[1998年]][[9月8日]]に、3rd(メジャー2nd)アルバム『[[セレブリティ・スキン]]』(''Celebrity Skin''がリリースされた。このアルバムは、[[スマッシング・パンプキンズ]]の[[ビリー・コーガン]]の助力を受けて完成した。また前作が「ソングライティングにカートの助力を仰いだ」という疑惑にさらされた事から、ビリーら外部の人間を含めた、ソングライターのクレジットを明記している。なお、この作品では、コートニーはギターを弾いておらず(全てエリックの演奏)、作詞と歌唱に専念したという。また収録曲ボーイズ・オン・ザ・レイディオ」("Boys On The Radio")は亡きカートに捧げた歌である。ビルボードでは最高8位、全英でも最高11位を記録し、[[グラミー賞]]にノミネートするなど商業的にも成功を収めた。


=== 争議 ===
=== 争議 ===
*しかし、バンドは契約を巡って、レコード会社[[ユニバーサル・ミュージック]]と争議を起こし、遂には訴訟問題にまで発展した。再びバンドの活動は停滞する。[[1999年]]10月には、ベースのメリッサが、以前からファンだったという[[スマッシング・パンプキンズ]]に加入するため脱退、バンドはメンバーの補充も行わず、実質的に活動休止状態となった。
しかし、バンドは契約を巡って、レコード会社[[ユニバーサル・ミュージック]]と争議を起こし、遂には訴訟問題にまで発展した。再びバンドの活動は停滞する。[[1999年]]10月には、ベースのメリッサが、以前からファンだったという[[スマッシング・パンプキンズ]]に加入するため脱退、バンドはメンバーの補充も行わず、実質的に活動休止状態となった。


*バンドの争議は、アーティストの著作権問題に絡み、マスコミに取り上げられ、コートニーは別件で[[クリス・ノヴォセリック]]、[[デイブ・グロール]]と[[ニルヴァーナ (バンド)|ニルヴァーナ]]の権利を巡っても衝突を起こした。
バンドの争議は、アーティストの著作権問題に絡み、マスコミに取り上げられ、コートニーは別件で[[クリス・ノヴォセリック]]、[[デイブ・グロール]]と[[ニルヴァーナ (アメリカ合衆国のバンド)|ニルヴァーナ]]の権利を巡っても衝突を起こした。


=== 解散 ===
=== 解散 ===
*バンドが停滞している時期にも、サマンサが[[モトリー・クルー]]の[[2000年]]ライブツアーに参加するなど、個別の活動は行われていた。サマンサは、このツアーで、ホール時代唯一の日公演を果たしている。
バンドが停滞している時期にも、サマンサが[[モトリー・クルー]]の[[2000年]]ライブツアーに参加するなど、個別の活動は行われていた。サマンサは、このツアーで、ホール時代唯一の日公演を果たしている。


*[[2000年]]3月には、[[オリバー・ストーン]]監督、[[アル・パチーノ]]主演の映画『'''[[エニイ・ギブン・サンデー]]'''(''Any Given Sunday'')』(公開は[[1999年]][[12月22日]])に使用された『'''ビー・ア・マン'''(''Be a Man'')』が[[シングル]]としてリリースされるが、これがホールとしては最後の作品となった。
[[2000年]]3月には、[[オリバー・ストーン]]監督、[[アル・パチーノ]]主演の映画『[[エニイ・ギブン・サンデー]](''Any Given Sunday''公開は[[1999年]][[12月22日]])に使用されたビー・ア・マン」("Be a Man")が[[シングル]]としてリリースされるが、これがホールとしては最後の作品となった。


*その後も、活動再開については様々な憶測や希望が飛び交うが、最終的には、[[2002年]]5月に、コートニーとエリックがバンドのウェブサイトで解散を宣言した。
その後も、活動再開については様々な憶測や希望が飛び交うが、最終的には、[[2002年]]5月に、コートニーとエリックがバンドのウェブサイトで解散を宣言した。


=== その後 ===
=== その後 ===
*解散後、エリックは[[プロデューサー]]や[[スタジオ・ミュージシャン]]として活動している。また、彼は東洋思想にも深い関心を抱いており([[1991年]]以来[[日蓮正宗]]の信徒でもある)、その研究にも邁進している。
解散後、エリックは[[プロデューサー]]や[[スタジオ・ミュージシャン]]として活動している。また、彼は東洋思想にも深い関心を抱いており([[1991年]]以来[[日蓮正宗]]の信徒でもある)、その研究にも邁進している。


*メリッサは、[[スマッシング・パンプキンズ]]解散後の[[2004年]]にソロアルバムを発表し、この作品には、元スマパンの[[ジェームス・イハ]]やエリックも参加している。なお、再結成したスマパンには、参加希望を表明していたが、今のところ加わっていない。
メリッサは、[[スマッシング・パンプキンズ]]解散後の[[2004年]]にソロアルバムを発表し、この作品には、元スマッシング・パンプキンズの[[ジェームス・イハ]]やエリックも参加している。なお、再結成したスマッシング・パンプキンズには、参加希望を表明していたが、今のところ加わっていない。


*サマンサは、[[スタジオ・ミュージシャン]]として活動し、メリル・ニスカー率いるピーチズのアルバムに参加した。
サマンサは、[[スタジオ・ミュージシャン]]として活動し、メリル・ニスカー率いるピーチズのアルバムに参加した。


*コートニーは、女優としての活動や私生活上のトラブルが続き、一時は元メンバーのPatty Schemelらと新バンド'''バスタード'''(''BASTARD'')を結成するも、立ち消えとなった。結局彼女は、ソロとして音楽活動を再開し、[[2004年]][[2月10日]]に1stアルバム『'''アメリカズ・スウィートハート'''(''America's Sweetheart'')』をリリースした。この作品には、サマンサやPattyも参加している。その後ツアーも行い、[[2007年]]には2ndアルバムをリリース予定。
コートニーは、女優としての活動や私生活上のトラブルが続き、一時は元メンバーのPatty Schemelらと新バンドバスタード(BASTARD)を結成するも、立ち消えとなった。結局彼女は、ソロとして音楽活動を再開し、[[2004年]][[2月10日]]に1stアルバム『アメリカズ・スウィートハート』をリリースした。この作品には、サマンサやPattyも参加している。その後ツアーも行い、[[2007年]]には2ndアルバムをリリース予定。


=== 再結成 ===
== ディスコグラフィー ==
[[2010年]]、再結成を表明。しかし、この再結成でのバンド・メンバーのうち、オリジナル・メンバーはコートニー・ラブのみで、あとのメンバーは新しい顔ぶれとなった。また、1stから3rdアルバム時のような、ギターのエリック以外は全員女性、といった編成でもなくなり、コートニー以外は全員男性である。この再結成に際し、オリジナル・メンバーであるエリック・アーランドソンは、『自分抜きでのホール再結成は法的にあり得ない』と物言いをつけた。

[[2010年]][[4月27日]]、ホール名義としては12年ぶりとなるオリジナル・アルバム『ノーバディーズ・ドーター』がリリースされた。

2010年夏には[[SUMMER SONIC]]で訪日。

== メンバー ==
*[[コートニー・ラブ]] (Courtney Love) - リード・ボーカル、ギター [[1964年]][[7月6日]]生まれ。[[カリフォルニア州]][[サンフランシスコ]]出身 ○△◎●□☆
*エリック・アーランドソン (Eric Erlandson) - リード・ギター [[1963年]][[1月9日]]生まれ。[[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]出身 ○△◎●□☆
*サマンサ・マロニー (Samantha Maloney) - ドラムス [[1975年]][[12月11日]]生まれ。[[ニューヨーク州]][[ニューヨーク]]出身 ☆

*[[メリッサ・オフ・ダ・マー]] (Melissa Auf der Maur) - ベース [[1972年]][[3月17日]]生まれ。[[カナダ]][[ケベック州]][[モントリオール]]出身 ☆
*Patty Schemel - ドラムス [[1967年]][[4月24日]]生まれ。 △◎□
*Caroline Rue - ドラムス ○●□
*Jill Emery - ベース [[1962年]]生まれ。[[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]出身 ○●□
*クリステン・パーフ (Kristen Pfaff) - ベース [[1967年]][[5月26日]]生まれ。[[1994年]][[6月16日]]死去。[[ニューヨーク州]][[バッファロー (ニューヨーク州)|バッファロー]]出身 △◎
*Leslie Hardy - ベース □

:エリック以外は、全員女性。メリッサ以外は、全員[[アメリカ合衆国]]出身。
:主要メンバー以外は、日本語表記が成されていない、一定していないため、英語表記のままとする。

=== 参加作品 ===
*メンバープロフィールの後の記号を参照
:○:''Pretty on the Inside''
:△:''Live Through This''
:◎:''Ask for It''
:●:''The First Session''
:□:''My Body, the Hand Grenade''
:☆:''Celebrity Skin''

== ディスコグラフィ ==
=== アルバム ===
=== アルバム ===
* ''Pretty on the Inside'' [[1991年]][[9月17日]]
*『プリティ・オン・ジ・インサイド』 - ''Pretty on the Inside'' (1991年9月17日)
* ''Live Through This'' [[1994年]][[4月12日]]
*『リヴ・スルー・ディス』 - ''Live Through This'' (1994年4月12日)
*『[[セレブリティ・スキン]]』 - ''Celebrity Skin'' (1998年9月8日)
* ''Ask for It'' [[1995年]][[9月8日]]
*『ノーバディーズ・ドーター』 - ''Nobody's Daughter'' (2010年4月27日)
* ''The First Session'' [[1997年]][[8月26日]]
* ''My Body, the Hand Grenade'' [[1997年]][[10月28日]]
* ''Celebrity Skin'' [[1998年]][[9月8日]]


=== シンル ===
=== コンピレー・アバム ===
* ''Retard Girl'' [[1990]][[4]]
* ''My Body, the Hand Grenade'' (19971028日)
* ''Dicknail'' [[1991年]][[3月]]
* ''Teenage Whore'' [[1991年]][[8月]]
* ''Beautiful Son'' [[1993年]][[4月]]
* ''Miss World'' [[1994年]][[5月12日]]
* ''Doll Parts'' [[1994年]][[11月15日]]
* ''Violet'' [[1995年]][[1月1日]]
* ''Softer, Softest'' [[1997年]][[1月]]
* ''Celebrity Skin'' [[1998年]][[10月8日]]
* ''Malibu'' [[1998年]][[12月29日]]
* ''Awful'' [[1997年]][[4月27日]]
* ''Be a Man'' [[2000年]][[3月28日]]


=== EP ===
*『アスク・フォー・イット』 - ''Ask for It'' (1995年9月8日)
* ''The First Session'' (1997年8月26日)
*『オーフル』 - ''Awful: Australian Tour EP'' (1999年)

=== シングル ===
* "Retard Girl" (1990年4月)
* "Dicknail" (1991年3月)
* "Teenage Whore" (1991年8月)
* "Beautiful Son" (1993年4月)
* "Miss World" (1994年5月12日)
* "Doll Parts" (1994年11月15日)
* "Violet" (1995年1月1日)
* "Softer, Softest" (1997年1月)
* "Celebrity Skin" (1998年10月8日)
* "Malibu" (1998年12月29日)
* "Awful" (1999年4月27日)
* "Be a Man" (2000年3月28日)


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[コートニー・ラブ]]
* [[カート・コバーン]]
* [[カート・コバーン]]
* [[ニルヴァーナ (バンド)]]
* [[ニルヴァーナ (アメリカ合衆国のバンド)]]
* [[ビリー・コーガン]]
* [[ビリー・コーガン]]
* [[スマッシング・パンプキンズ]]
* [[スマッシング・パンプキンズ]]


{{Normdaten}}
[[Category:アメリカ合衆国のバンド|ほおる]]
{{DEFAULTSORT:ほおる}}

[[Category:アメリカ合衆国のオルタナティヴ・ロック・バンド]]
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[[Category:グランジ・バンド]]
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[[Category:サマーソニック出演者]]
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[[Category:第三波フェミニズム]]
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[[sr:Hole]]
[[sv:Hole]]
[[tr:Hole]]
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2023年10月9日 (月) 01:14時点における最新版

ホール
Hole
2010年
基本情報
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ロサンゼルス
ジャンル オルタナティヴ・ロック
グランジ
活動期間 1989年 - 2002年2009年 - 2012年
レーベル ゲフィン
ユニバーサル・ミュージック
旧メンバー コートニー・ラブリード・ボーカルギター
(1989年 - 2002年、2010年 - 2012年)
エリック・アーランドソン(リード・ギター
(1989年 - 2002年、2012年)
キャロライン・ルー(ドラムス
(1989年 - 1992年)
ジル・エメリ(ベース
(1990年 - 1992年)
パッティー・シェメル(ドラムス
(1992年 - 1998年、2012年)
レズリー・ハーディー(ベース
(1992年 - 1993年)
クリステン・パーフ(ベース
(1993年 - 1994年)
メリッサ・オフ・ダ・マーベース
(1994年 - 1999年、2012年)
サマンサ・マロニー(ドラムス
(1998年 - 2000年)
ミーコ・ラーケン(リード・ギター
(2010年 - 2012年)
ショーン・デイリー(ベース
(2010年 - 2012年)
スチュー・フィシャー(ドラムス
(2010年 - 2011年)
スコット・リップス(ドラムス
(2011年 - 2012年)

ホールHole)は、アメリカ合衆国ロサンゼルス1989年コートニー・ラブを中心に結成されたロックバンド。コートニーの夫カート・コバーンニルヴァーナ、元交際相手のビリー・コーガン率いるスマッシング・パンプキンズらと並び、1990年代を中心に世界的に高い人気を誇った。

活動期間中は、様々な事情で幾度となくメンバーが交代した。解散時の編成は、リード・ボーカル兼ギターがコートニー・ラブ(Courtney Love)、リード・ギターがエリック・アーランドソン(Eric Erlandson)、ドラムスはサマンサ・マロニー(Samantha Maloney)。なお、この時点でのベーシストは不在。

来歴

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:本稿の記述におけるCDのリリース日、映画の公開日等は全てアメリカ合衆国におけるもの

結成

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10代から音楽活動を行い、フェイス・ノー・モアのボーカルを一時期務めるなど、ミュージシャンに知己の多かったコートニー・ラブが、1989年にロサンゼルで結成。2年後の1991年9月7日、1stアルバム『プリティ・オン・ジ・インサイド』(Pretty on the Inside)をヴァージン・レコード傘下のインディーレーベルであったキャロライン・レコードからリリース。コートニー自身が、娼婦だった体験などを赤裸々に歌い上げた作品で、欧米ツアーを成功させた。なお、このアルバムはソニック・ユースキム・ゴードンとドン・フレミングがプロデュースしている。

また、この年にコートニーはカートと出会い、既にトップスターだったカートとの交際はセンセーショナルに報道され、皮肉にもコートニーとバンド自身の知名度を上げることに一役買うこととなった。

リブ・スルー・ディス

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こうした私生活のトラブルやメンバーの交代が相次ぐが、1993年には、ニルヴァーナの所属レーベルでもあるゲフィンと契約。メジャーデビュー作となるアルバムの制作を行う。この作品は、1994年4月12日リリースが告知されるが、発売1週間前の同年4月5日に、カートが散弾銃で自殺を遂げる。この事件には、不審な点も多かった事から、他殺説も含めた様々な憶測が飛び交い、中には「カートはコートニーに殺された」と主張する者もいた。

そうした事態を乗り越えて、予定通り2nd(メジャー1st)アルバム『リブ・スルー・ディス』(Live Through This)はリリースされた。なお、一部の曲でカートがバックボーカルを務めており、一部にはソングライティングにも携わったという疑惑もあったが、コートニーはそれを否定している。

この作品は、その内容もさりながら、やはりセンセーショナルな話題性で大きな商業的成功を収め、ビルボードでは最高52位止まりながらロングセールスで、米国のプラチナムディスクを獲得した。ちなみに、このアルバムの裏ジャケットに写っているのは、少女時代のコートニーである。

セッション

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しかし、悲劇は続き、このアルバムにも参加したベーシストのクリステン・パーフ (Kristen Pfaff)が1994年6月16日ヘロインオーバードース(過剰摂取)で変死した。バンドは代役にメリッサ・オフ・ダ・マー (Melissa Auf der Maur)を迎え、大規模なツアーを成功させた。1995年2月14日にはMTVアンプラグドに出演し、オリジナル曲に加えて、当時未発表曲だったニルヴァーナの「ユー・ノウ・ユア・ライト」("You Know You're Right")などを演奏している。

また、この時期には、初期のレア音源集も発表されている。1995年9月8日には『アスク・フォー・イット』(Ask for it1991年11月19日1992年春のセッションを収録)、1997年8月26日には『ザ・ファースト・セッション』(The First Session1990年のセッションを収録)、同年10月28日には『マイ・ボディ・ザ・ハンド・グレネード』(My Body, the Hand Grenade、B面曲や未発表曲を集めたミニアルバム)がリリースされた。

映画

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一方では、1996年に公開されたミロス・フォアマン監督の映画『ラリー・フリント』(The People vs. Larry Flynt)で、コートニーは女優として、ニューヨーク映画批評家協会賞とボストン映画批評家協会の最優秀女優賞、シカゴ映画批評家協会の最優秀新人女優賞を受賞。第54回ゴールデングローブ賞主演女優賞にもノミネートされ、ホール以前の1986年から活動していた女優としての地位を確立する。

セレブリティ・スキン

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こうした事情から、バンド活動は停滞するが、1997年から約1年半に亘って、ロサンゼルスとロンドン、ニューヨークでセッションを行い、1998年9月8日に、3rd(メジャー2nd)アルバム『セレブリティ・スキン』(Celebrity Skin)がリリースされた。このアルバムは、スマッシング・パンプキンズビリー・コーガンの助力を受けて完成した。また前作が「ソングライティングにカートの助力を仰いだ」という疑惑にさらされた事から、ビリーら外部の人間を含めた、ソングライターのクレジットを明記している。なお、この作品では、コートニーはギターを弾いておらず(全てエリックの演奏)、作詞と歌唱に専念したという。また収録曲「ボーイズ・オン・ザ・レイディオ」("Boys On The Radio")は亡きカートに捧げた歌である。ビルボードでは最高8位、全英でも最高11位を記録し、グラミー賞にノミネートするなど商業的にも成功を収めた。

争議

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しかし、バンドは契約を巡って、レコード会社ユニバーサル・ミュージックと争議を起こし、遂には訴訟問題にまで発展した。再びバンドの活動は停滞する。1999年10月には、ベースのメリッサが、以前からファンだったというスマッシング・パンプキンズに加入するため脱退、バンドはメンバーの補充も行わず、実質的に活動休止状態となった。

バンドの争議は、アーティストの著作権問題に絡み、マスコミに取り上げられ、コートニーは別件でクリス・ノヴォセリックデイブ・グロールニルヴァーナの権利を巡っても衝突を起こした。

解散

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バンドが停滞している時期にも、サマンサがモトリー・クルー2000年ライブツアーに参加するなど、個別の活動は行われていた。サマンサは、このツアーで、ホール時代唯一の日本公演を果たしている。

2000年3月には、オリバー・ストーン監督、アル・パチーノ主演の映画『エニイ・ギブン・サンデー』(Any Given Sunday、公開は1999年12月22日)に使用された「ビー・ア・マン」("Be a Man")がシングルとしてリリースされるが、これがホールとしては最後の作品となった。

その後も、活動再開については様々な憶測や希望が飛び交うが、最終的には、2002年5月に、コートニーとエリックがバンドのウェブサイトで解散を宣言した。

その後

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解散後、エリックはプロデューサースタジオ・ミュージシャンとして活動している。また、彼は東洋思想にも深い関心を抱いており(1991年以来日蓮正宗の信徒でもある)、その研究にも邁進している。

メリッサは、スマッシング・パンプキンズ解散後の2004年にソロ・アルバムを発表し、この作品には、元スマッシング・パンプキンズのジェームス・イハやエリックも参加している。なお、再結成したスマッシング・パンプキンズには、参加希望を表明していたが、今のところ加わっていない。

サマンサは、スタジオ・ミュージシャンとして活動し、メリル・ニスカー率いるピーチズのアルバムに参加した。

コートニーは、女優としての活動や私生活上のトラブルが続き、一時は元メンバーのPatty Schemelらと新バンドバスタード(BASTARD)を結成するも、立ち消えとなった。結局彼女は、ソロとして音楽活動を再開し、2004年2月10日に1stアルバム『アメリカズ・スウィートハート』をリリースした。この作品には、サマンサやPattyも参加している。その後ツアーも行い、2007年には2ndアルバムをリリース予定。

再結成

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2010年、再結成を表明。しかし、この再結成でのバンド・メンバーのうち、オリジナル・メンバーはコートニー・ラブのみで、あとのメンバーは新しい顔ぶれとなった。また、1stから3rdアルバム時のような、ギターのエリック以外は全員女性、といった編成でもなくなり、コートニー以外は全員男性である。この再結成に際し、オリジナル・メンバーであるエリック・アーランドソンは、『自分抜きでのホール再結成は法的にあり得ない』と物言いをつけた。

2010年4月27日、ホール名義としては12年ぶりとなるオリジナル・アルバム『ノーバディーズ・ドーター』がリリースされた。

2010年夏にはSUMMER SONICで訪日。

メンバー

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エリック以外は、全員女性。メリッサ以外は、全員アメリカ合衆国出身。
主要メンバー以外は、日本語表記が成されていない、一定していないため、英語表記のままとする。

参加作品

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  • メンバープロフィールの後の記号を参照
○:Pretty on the Inside
△:Live Through This
◎:Ask for It
●:The First Session
□:My Body, the Hand Grenade
☆:Celebrity Skin

ディスコグラフィ

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アルバム

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  • 『プリティ・オン・ジ・インサイド』 - Pretty on the Inside (1991年9月17日)
  • 『リヴ・スルー・ディス』 - Live Through This (1994年4月12日)
  • セレブリティ・スキン』 - Celebrity Skin (1998年9月8日)
  • 『ノーバディーズ・ドーター』 - Nobody's Daughter (2010年4月27日)

コンピレーション・アルバム

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  • My Body, the Hand Grenade (1997年10月28日)

EP

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  • 『アスク・フォー・イット』 - Ask for It (1995年9月8日)
  • The First Session (1997年8月26日)
  • 『オーフル』 - Awful: Australian Tour EP (1999年)

シングル

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  • "Retard Girl" (1990年4月)
  • "Dicknail" (1991年3月)
  • "Teenage Whore" (1991年8月)
  • "Beautiful Son" (1993年4月)
  • "Miss World" (1994年5月12日)
  • "Doll Parts" (1994年11月15日)
  • "Violet" (1995年1月1日)
  • "Softer, Softest" (1997年1月)
  • "Celebrity Skin" (1998年10月8日)
  • "Malibu" (1998年12月29日)
  • "Awful" (1999年4月27日)
  • "Be a Man" (2000年3月28日)

関連項目

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