「ミシシッピ (蒸気フリゲート)」の版間の差分
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==艦歴== |
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===米墨戦争=== |
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米国本国艦隊に数年間配属され、「蒸気海軍」の設立のための重要な実験を行った後、ミシシッピは1845年にペリー代将の西インド艦隊の旗艦となった。[[米墨戦争]]中アルバラード([[ |
米国本国艦隊に数年間配属され、「蒸気海軍」の設立のための重要な実験を行った後、ミシシッピは1845年にペリー代将の西インド艦隊の旗艦となった。[[米墨戦争]]中アルバラード([[:en:Alvarado, Veracruz|Alvarado]])、[[タンピコ]]、パヌーコ([[:en:Pánuco, Veracruz|Pánuco]])、[[テルミノス湖|ラグナ・デ・テルミノス]](Laguna de Términos)への遠征作戦に参加し、全て成功した。これにより、メキシコ沿岸部に対する米国のコントロールが強化され、沿岸部の商業活動および軍需品供給を妨害することができた。 |
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ミシシッピは修理のため、1847年1月1日に[[ノーフォーク]]に一旦戻り、修理完了後、本国艦隊の司令官となったペリーを乗せ、3月21日には[[ベラクルス]]に到着。海陸協働作戦である[[ベラクルス包囲戦]]に参加し、武器と兵員を輸送した他、陸軍と協力し沿岸部および砦の砲撃を行った。メキシコ軍は4日後に降伏した。戦争の残りの期間、ミシシッピは、何度かメキシコ東岸に対する武器・兵員輸送任務に参加し、6月の[[タバスコ州]]占領作戦にも参加した。 |
ミシシッピは修理のため、1847年1月1日に[[ノーフォーク]]に一旦戻り、修理完了後、本国艦隊の司令官となったペリーを乗せ、3月21日には[[ベラクルス]]に到着。海陸協働作戦である[[ベラクルス包囲戦]]に参加し、武器と兵員を輸送した他、陸軍と協力し沿岸部および砦の砲撃を行った。メキシコ軍は4日後に降伏した。戦争の残りの期間、ミシシッピは、何度かメキシコ東岸に対する武器・兵員輸送任務に参加し、6月の[[タバスコ州]]占領作戦にも参加した。 |
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===日本開国任務=== |
===日本開国任務=== |
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[[ファイル:Passing the Rubicon by Eliphalet M. Brown after Peter Bernard William Heine, 1855, color lithograph with hand-coloring on paper, from the National Portrait Gallery - NPG-8200260B 1.jpg|サムネイル|1853年7月、江戸湾を調査する'''ミシシッピ号'''艦長サイラス・ベント([[:en:Silas Bent (naval officer)]])一行。]] |
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1849年から1851年の間は[[地中海]]で任務につき、この間に[[ハンガリー王国|ハンガリー]]の革命家[[コシュート・ラヨシュ]]の亡命を手助けしている。その後、ペリーの[[黒船来航|日本訪問艦隊]]の旗艦となるべく、米国に戻った。この任務はもともと[[ジョン・オーリック]]に与えられたものであったが、オーリックが中国で病を得たため、ペリーがその代わりを務めることになったものである。艦隊は[[ハンプトン・ローズ]]を1852年11月24日に出港、[[マデイラ諸島|マデイラ]]、[[喜望峰]]、[[香港]]を経て、1853年5月4日に[[上海]]に到着した。ここでミシシッピは旗艦任務をより新しい蒸気外輪フリゲートである[[サスケハナ (巡洋艦)|サスケハナ]]に譲っている。艦隊は5月17日に上海を出航し、5月26日に[[那覇市|那覇]]に到着、[[琉球王国]]に開国を促す大統領親書を手渡した。6月9日に那覇を出航、6月14日から6月18日にかけて、[[小笠原諸島]]を探検した。6月23日に一度琉球へ帰還し、7月2日に日本へ出航した。1853年7月8日([[嘉永]]六年六月三日)に[[浦賀]]沖に到着。ペリーは海軍および外交歴上最も困難かつ重要な任務の一つとされる日本開国任務を開始した。[[ミラード・フィルモア|フィルモア大統領]]の親書を幕府に提出後、艦隊は7月17日(六月十二日)に江戸を離れ、香港へ帰った。1854年2月13日(嘉永七年一月十六日)、ミシシッピは旗艦サスケハナ、新たに加わった蒸気外輪フリゲートである[[ポーハタン (フリゲート)|ポーハタン]]、および3隻の帆走艦と共に、再度浦賀に到着した。3月31日(三月三日)、[[日米和親条約]]が締結され、さらに6月20日(五月二十五日)に和親条約の細則を定めた下田条約が締結された。艦隊は6月25日(六月一日)に日本を離れた。 |
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ミシシッピは1855年4月23日にニューヨークに戻り、1857年8月19日再び極東に派遣され、上海を基地に急拡大しつつある米国の東洋貿易をサポートした。1859年6月には[[ジョサイア・タットノール]]代将の旗艦として、英国及びフランス軍と協力して[[大沽砲台]]を攻撃した。2ヵ月後にはアメリカ領事からの要請により、上海の治安回復のため部隊を上陸させている。1860年には[[ボストン]]に戻るが、[[南北戦争]]の勃発により新たな任務についた。 |
ミシシッピは1855年4月23日にニューヨークに戻り、1857年8月19日再び極東に派遣され、上海を基地に急拡大しつつある米国の東洋貿易をサポートした。1859年6月には[[ジョサイア・タットノール]]代将の旗艦として、英国及びフランス軍と協力して[[大沽砲台]]を攻撃した。2ヵ月後にはアメリカ領事からの要請により、上海の治安回復のため部隊を上陸させている。1860年には[[ボストン]]に戻るが、[[南北戦争]]の勃発により新たな任務についた。 |
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===南北戦争=== |
=== 南北戦争 === |
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ミシシッピは1861年6月8日に[[キーウェスト]]沖に到着し、海上封鎖任務についた。5日後に、コーヒーを満載し[[リオデジャネイロ市|リオデジャネイロ]]から[[ニューオーリンズ]]に向かっていた[[スクーナー]]を[[拿捕]]した。11月27日、ミシシッピ川の北東航路沖で、スループ |
ミシシッピは1861年6月8日に[[キーウェスト]]沖に到着し、海上封鎖任務についた。5日後に、コーヒーを満載し[[リオデジャネイロ市|リオデジャネイロ]]から[[ニューオーリンズ]]に向かっていた[[スクーナー]]を[[拿捕]]した。11月27日、ミシシッピ川の北東航路沖で、帆走戦闘スループ・[[ビンセンス (戦闘スループ)|ビンセンス]]と協力し、同じくコーヒーをリオからニューオーリンズに輸送していた英国の[[バーク]]を拿捕した。翌年春にはニューオーリンズ攻撃計画のため[[デヴィッド・ファラガット|ファラガット]]艦隊に加わった。数回の試みの後、1862年4月7日に、ミシシッピと僚艦ペンサコーラは南西航路の[[砂州]]を突破したが、その時点ではミシシッピ川に進入した最も重い艦船であった。 |
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ファラガットは彼の艦隊をミシシッピ川の上流に向けた。[[ニューオーリンズの戦い (南北戦争)|ニューオーリンズを目指す中]]、4月24日に重要な戦闘がジャクソン |
ファラガットは彼の艦隊をミシシッピ川の上流に向けた。[[ニューオーリンズの戦い (南北戦争)|ニューオーリンズを目指す中]]、4月24日に重要な戦闘がジャクソン要塞([[:en:Fort Jackson (Louisiana)|Fort Jackson]])とセントフィリップ要塞([[:en:Fort Saint Philip|Fort Saint Philip]] )で発生した。[[アメリカ連合国海軍|南軍]]の[[衝角]]艦[[マナサス (装甲艦)|マナサス]]は艦隊の通過を阻止しようと試みたが、ミシシッピはその強力な左右の2つの外輪の力で、マナッサスを浅瀬に座礁させた。街の運命はこれで決まった。1862年4月28日、ニューオーリンズは陥落した。ミシシッピの喫水線は深すぎるため、軽い艦艇に比べると河川での任務には向いていなかった。このため、翌年はほとんど、ニューオーリンズに留まった。 |
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翌1863年3月、ミシシッピはハドソン港([[ |
翌1863年3月、ミシシッピは[[ハドソン港]]([[:en:Port Hudson, Louisiana|Port Hudson]])に対する作戦のため上流に向かうよう命令され、他の6隻の僚艦とともに出港した。6隻はペアとなって行動したが、ミシシッピは単独で航行していた。1863年3月14日、ハドソン港を守る砦の前を通過しようとしたとき、ミシシッピは座礁してしまった。敵の砲弾が降り注ぐ中、スミス(Melancthon Smith)大佐と副官の[[ジョージ・デューイ]](後に、米海軍唯一の大[[元帥 (アメリカ合衆国)#海軍主席提督|元帥]]となる)は艦を離礁させるべくあらゆる手段を講じた。しかしながら、機関は破壊され、大砲は沈黙し、南軍による鹵獲を避けるため、ミシシッピは自らに火をつけた。火薬庫に火がまわり、ミシシッピは爆発、沈没した。64名が死亡、224名が他の艦に救助された。 |
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==関連項目== |
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*[[コレラ]] - 1858年の[[長崎港|長崎]]来航の際に同船していた患者から広まり、日本で28万の死者を出す大流行となった |
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==外部リンク== |
==外部リンク== |
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* Japan America Society of Greater Philadelphia [http://jasgp.org/content/view/484/178/ The Philadelphia origins of U.S.S. Mississippi] |
* Japan America Society of Greater Philadelphia [http://jasgp.org/content/view/484/178/ The Philadelphia origins of U.S.S. Mississippi] |
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[[Category:アメリカ合衆国の帆走フリゲート]] |
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[[Category:アメリカ海軍の艦船]] |
[[Category:幕末アメリカ合衆国海軍の艦船]] |
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[[Category:米墨戦争]] |
[[Category:米墨戦争]] |
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[[Category:南北戦争]] |
[[Category:南北戦争の沈没船]] |
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[[en:USS Mississippi (1841)]] |
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[[Category:1841年竣工船]] |
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[[Category:マシュー・ペリー]] |
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<!-- ←英語版では竣工後に進水となっており、間違いではありません --> |
2022年6月4日 (土) 22:32時点における最新版
ミシシッピ | |
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基本情報 | |
建造所 | フィラデルフィア海軍工廠 |
運用者 | アメリカ海軍 |
艦種 | 外輪船 |
艦歴 | |
起工 | 1839年 |
進水 | 1842年 |
就役 | 1841年12月22日 |
最期 | 1863年3月14日、自沈 |
要目 | |
排水量 | 3230英トン |
長さ | 229 ft (70 m) |
幅 | 40 ft (12 m) |
吃水 | 19 ft (5.8 m) |
推進 | 蒸気機関 |
速力 | 8ノット |
兵装 |
• 10インチペクサン砲 2基 • 8インチペクサン砲 8基 |
初代ミシシッピ号(USS Mississippi)は、米国海軍の蒸気外輪フリゲート艦である。名前はミシシッピ川に由来する。マシュー・ペリー代将の個人的な監督の下、フィラデルフィア海軍工廠で起工。1841年12月に就役した。嘉永6年(1853年)のペリーの日本来航の際の四隻の黒船の1隻。
艦歴
[編集]米墨戦争
[編集]米国本国艦隊に数年間配属され、「蒸気海軍」の設立のための重要な実験を行った後、ミシシッピは1845年にペリー代将の西インド艦隊の旗艦となった。米墨戦争中アルバラード(Alvarado)、タンピコ、パヌーコ(Pánuco)、ラグナ・デ・テルミノス(Laguna de Términos)への遠征作戦に参加し、全て成功した。これにより、メキシコ沿岸部に対する米国のコントロールが強化され、沿岸部の商業活動および軍需品供給を妨害することができた。
ミシシッピは修理のため、1847年1月1日にノーフォークに一旦戻り、修理完了後、本国艦隊の司令官となったペリーを乗せ、3月21日にはベラクルスに到着。海陸協働作戦であるベラクルス包囲戦に参加し、武器と兵員を輸送した他、陸軍と協力し沿岸部および砦の砲撃を行った。メキシコ軍は4日後に降伏した。戦争の残りの期間、ミシシッピは、何度かメキシコ東岸に対する武器・兵員輸送任務に参加し、6月のタバスコ州占領作戦にも参加した。
日本開国任務
[編集]1849年から1851年の間は地中海で任務につき、この間にハンガリーの革命家コシュート・ラヨシュの亡命を手助けしている。その後、ペリーの日本訪問艦隊の旗艦となるべく、米国に戻った。この任務はもともとジョン・オーリックに与えられたものであったが、オーリックが中国で病を得たため、ペリーがその代わりを務めることになったものである。艦隊はハンプトン・ローズを1852年11月24日に出港、マデイラ、喜望峰、香港を経て、1853年5月4日に上海に到着した。ここでミシシッピは旗艦任務をより新しい蒸気外輪フリゲートであるサスケハナに譲っている。艦隊は5月17日に上海を出航し、5月26日に那覇に到着、琉球王国に開国を促す大統領親書を手渡した。6月9日に那覇を出航、6月14日から6月18日にかけて、小笠原諸島を探検した。6月23日に一度琉球へ帰還し、7月2日に日本へ出航した。1853年7月8日(嘉永六年六月三日)に浦賀沖に到着。ペリーは海軍および外交歴上最も困難かつ重要な任務の一つとされる日本開国任務を開始した。フィルモア大統領の親書を幕府に提出後、艦隊は7月17日(六月十二日)に江戸を離れ、香港へ帰った。1854年2月13日(嘉永七年一月十六日)、ミシシッピは旗艦サスケハナ、新たに加わった蒸気外輪フリゲートであるポーハタン、および3隻の帆走艦と共に、再度浦賀に到着した。3月31日(三月三日)、日米和親条約が締結され、さらに6月20日(五月二十五日)に和親条約の細則を定めた下田条約が締結された。艦隊は6月25日(六月一日)に日本を離れた。
ミシシッピは1855年4月23日にニューヨークに戻り、1857年8月19日再び極東に派遣され、上海を基地に急拡大しつつある米国の東洋貿易をサポートした。1859年6月にはジョサイア・タットノール代将の旗艦として、英国及びフランス軍と協力して大沽砲台を攻撃した。2ヵ月後にはアメリカ領事からの要請により、上海の治安回復のため部隊を上陸させている。1860年にはボストンに戻るが、南北戦争の勃発により新たな任務についた。
南北戦争
[編集]ミシシッピは1861年6月8日にキーウェスト沖に到着し、海上封鎖任務についた。5日後に、コーヒーを満載しリオデジャネイロからニューオーリンズに向かっていたスクーナーを拿捕した。11月27日、ミシシッピ川の北東航路沖で、帆走戦闘スループ・ビンセンスと協力し、同じくコーヒーをリオからニューオーリンズに輸送していた英国のバークを拿捕した。翌年春にはニューオーリンズ攻撃計画のためファラガット艦隊に加わった。数回の試みの後、1862年4月7日に、ミシシッピと僚艦ペンサコーラは南西航路の砂州を突破したが、その時点ではミシシッピ川に進入した最も重い艦船であった。
ファラガットは彼の艦隊をミシシッピ川の上流に向けた。ニューオーリンズを目指す中、4月24日に重要な戦闘がジャクソン要塞(Fort Jackson)とセントフィリップ要塞(Fort Saint Philip )で発生した。南軍の衝角艦マナサスは艦隊の通過を阻止しようと試みたが、ミシシッピはその強力な左右の2つの外輪の力で、マナッサスを浅瀬に座礁させた。街の運命はこれで決まった。1862年4月28日、ニューオーリンズは陥落した。ミシシッピの喫水線は深すぎるため、軽い艦艇に比べると河川での任務には向いていなかった。このため、翌年はほとんど、ニューオーリンズに留まった。
翌1863年3月、ミシシッピはハドソン港(Port Hudson)に対する作戦のため上流に向かうよう命令され、他の6隻の僚艦とともに出港した。6隻はペアとなって行動したが、ミシシッピは単独で航行していた。1863年3月14日、ハドソン港を守る砦の前を通過しようとしたとき、ミシシッピは座礁してしまった。敵の砲弾が降り注ぐ中、スミス(Melancthon Smith)大佐と副官のジョージ・デューイ(後に、米海軍唯一の大元帥となる)は艦を離礁させるべくあらゆる手段を講じた。しかしながら、機関は破壊され、大砲は沈黙し、南軍による鹵獲を避けるため、ミシシッピは自らに火をつけた。火薬庫に火がまわり、ミシシッピは爆発、沈没した。64名が死亡、224名が他の艦に救助された。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- Japan America Society of Greater Philadelphia The Philadelphia origins of U.S.S. Mississippi